ふと、自分の身体を包む布団に違和感を覚えた。
大好きな羊毛の毛布がないし、掛け布団がやけに重い。シーツも掛け布団カバー枕カバーも、すべすべとした布の感触で、毎夜慣れ親しんだものとはだいぶ違う。どこか堅い印象のある寝具は、の眠気を一気に覚ました。
開けた眼に飛び込んできたのは、薄暗い部屋。今は夜なのかと、一つ知り得る。そして身体はそのままに、ぐるりと眼球を動かすと周囲を囲うカーテンが見えた。ほんのり香る消毒液の香りと共に、自分が何故ここにいるのかを、段々と思い出せてきた。
その時、布団の端で何かが動いた。そういえば、ずっと掛け布団の上に何かの重みを感じていた。途端にの心臓は暴走しはじめる。まだはっきりとしない頭で出来たのは、息を呑んで身体を強張らせる事だけだった。逃げる暇もなく、ただ自分以外の何者かの動きを目で追う。すぐそばのその者に、この胸の早鐘が聞こえてしまうんではないかと、は芯が凍えるような恐怖を感じていた。闇に眼が慣れるのが、永遠に感じるほど遠い。
ようやく薄っすらとその輪郭を捉えられたのと同じくして、声が聞こえてきた。
「おや……? ?」
「その声……ア、アバン先生!?」
「おはようございます」と言われても、どう返したらいいのかには分からなかった。不審者でない事が分かって安堵するも、身体の強張りを解く事はまだ出来ない。
「先生、どうして……いや、私、何で……?」
混乱する頭にアバンは手を伸ばす。そしてに額にその手をそっと乗せた。
「良かった。熱はもうないようですね」
そうだった。
今日は朝からずっと頭痛が続いていた。それに耐えるも、6時間目には熱が上がるのを感じ、今日の最後の授業ではあったが保健室に休みに来たのだった。ベッドに入ればすぐに眠気を感じ、の記憶はそこで終わっていた。
「保健室で寝込んでると聞いたので、心配になって来ちゃったんです」
アバンは薄暗い中でも分かるぐらいハッキリと、笑顔を見せる。彼らは人知れず続いている恋仲であった。夜の学校に取り残されるなんてこんな心細い状況の中では、恋人の存在がとても心強かった。は布団の中で縮込ませていた身体をようやく弛緩させる。
「保健の先生が出張で出掛けられたっていうのもあって、あとは私に任せてもらったんです。でも気持ち良さそうに寝てる貴女の隣にいたら、つい私も一緒になって寝てしまいました」
アハハと笑い声が響いたが、は保健室に掛かっている時計を見て驚いた。もう日付が変わりそうだ。
「つい、ってレベルじゃないですよ!?」
「おや。本当だ」
「ああ! 早く帰らないと!」
存分に身体を休めたからか、の体調は戻ったようだった。ベッドから飛び起きると、ブレザーを取りに手を伸ばそうとする。が、アバンは先にのブレザーをハンガーから取り、半身を起こしているの肩に掛けてやる。そして苦笑交じりの表情を見せた。
「ああ、それがですねぇ……。今日は帰れないかもしれません」
「え?」
「この学校、ものすごいセキュリティが厳しいんですよ」
アバンの話によると、この学園のセキュリティ設備は変わっているらしい。入るにはまだ容易なのだが、泥棒など不審者を逃さない為に、内側から出るには相当なセキュリティをくぐらないといけないとの事だった。
「ウチの校長のモットーは『校長からは逃げられない』ですからね。入れまいとするより、逃がすまいとする方に力を入れるっていうか……」
「そんなぁ!」
無理に逃げ出そうとして再起不能になった者もいるらしい、なんて昔話を聞かされては、強行突破する気も起きなかった。愕然とするの横で、アバンはズボンのポケットから携帯電話取り出し、どこかにかけはじめた。
「――ああ、もしもし、アバンです。コンバンワ。実は学校に取り残されちゃったんですけど、どうにかロックを解除してもらえません? え? はぁ、はぁ……は? 呑んじゃった? ちょ、勘弁して下さいよ、酒が抜けるの朝じゃないですか……! ええ、ええ、ハイ……申し訳ありません、私のうっかりのせいです、ゴメンナサイ。――じゃあ朝に、ええ、お願いします」
不安げな顔のに、無理に作ってると分かる笑顔を向けた。
「と、いうわけで、ロン・ベルク先生に飲酒運転させるわけにはいきませんし、朝まで我慢しましょうか」
「仕方ないですね……」
は一つ溜め息をついた。
「もお家に電話しますか? ご家族が心配されているでしょう? 良ければ私から事情を説明しますが」
「ああ、それが……実は今日はマァムの家にお泊りの予定だったんです。でも急に用事が出来ちゃったらしく、今日学校に来てから延期する事に決まったの。親には家に帰ってから延期した事を教えようと思ってたので、きっと今頃はマァムの家にお世話になってると思ってるだろうし、心配はしてないかと……」
「ふむ、知らせれば余計な心配をかけてしまいますか……」
アバンは顎に片手を当て頷く。
「ま、ロン先生に電話したし、証人にはなってもらえますね」
そう言うと携帯電話をサイドテーブルに置いた。そしてベッド脇の椅子から腰を上げるとベッドに腰掛け、の顔を意味ありげな微笑で覗き込んだ。
「さて。これだけ寝てしまったから、寝付けませんね。何して朝まで過ごしましょう。おあつらえ向きに、こうしてベッドまであるし……」
途端にの顔はポストのように真っ赤になった。ベッドの上部に逃げるように腰を引いたが、大した距離も稼げない。せめてもの抵抗に強く眉をひそめた。
「せ、先生のエッチ!」
「ハハ、冗談ですよ」
本当に冗談だろうかという疑いの目を向けるが、アバンは意にも介さず快活に笑うだけだった。だが冗談だと言うわりには、アバンはベッドから立ち上がり、おもむろに白衣を脱ぎはじめたではないか。は目を丸くし、来るべき羞恥に頬を真っ赤に染め上げた。するりと肩に掛かっていたブレザーも取り払われ、再びハンガーに掛けられる。そしてアバンは何の迷いもなく、ベッドに潜り込んだ。
「せっ先生! ダメですってば! こんな所で……!!」
「大丈夫、何もしませんって。そんなに逃げないで下さいよ、」
ベッドの縁ギリギリまで寄せていたの身体を、言葉は優しいが有無を言わさない力強さで引き寄せる。あっという間にアバンの腕の中に収まってしまった。は石のように身体を強張らせた。
「一緒に横になるくらいはいいでしょう? ホラ、こうすれば暖かい」
確かに夜の学校などという心細い中では、人の温もりが有り難い。だが誰もいないとしても、学校という場所で、しかもベッドの中でこんなにも密着する事など、には考えられなかった。恥ずかしさに肩と頬が付きそうなほど、肩をいからせていた。
「おやおや。私、そんなに信用ないですか?」
「いえ! そういうわけじゃ……! でも、あの、その、こうしていられるのはすごく嬉しいんですけど、それ以上にすごく恥ずかしくて……」
「ふふ。では……何か話でもしましょうか」
アバンは片肘をついて頭を乗せて微笑んだ。は見上げるようにしてアバンを見た。その柔和な笑みはの身体の強張りをとかせ、耳を傾けさせた。
「私がこの学園の卒業生だという事は知ってますよね? 私がいた頃でも、さらに昔話として流れていた話です……」
アバンの耳にくすぐる声が、いつもよりも低音に響く。
昔、この学校にいた女子生徒のお話です。その子は合唱部に入っていて、歌の好きな純朴な子だったといいます。彼女には好きな人がいました。相手は同じクラスの男子生徒で、剣道部の主将を務めていた少年でした。そして……古い家柄の嫡男でした。彼には生まれる前から家同士が決めた許婚がおり、卒業後すぐに結婚する事も決められていました。彼女もその事は知っていたのです。だから声もかけず、ただ見ていたのです。そう、来る日も来る日も、静かで熱い瞳を送るだけでした。もし視線が合えば、彼女は恥ずかしいながらも天にも昇る気持ちで喜びました。それが一週間に一回が三日に一回へ、三日に一回が毎日へ……。段々と増えていく視線の交差。彼らはいつの間にか、見つめ合う事になりました。
卒業が迫るある日、二人は約束を交わしました。卒業したらそのまま駆け落ちしようと。
そして少女は、生徒の間でまことしやかに流れる噂を耳にします。この学校に伝わる桜の伝説を。それは、好きな人と結ばれる事を願う桜の精との契約だそうです。想い人と結ばれるかわりに自分の一番大切なものを差し出すという、取り引きにも近いものです。ですが、少女は少年の言葉だけでは不安だったのでしょう。彼女は桜の下で願いました。「どうか私たちに祝福を。代わりに私の声を差し上げます」
とうとう卒業式を迎えました。式後、少女はボストンバッグを抱えて待ち合わせ場所に向かいます。夕闇に紛れそうでしたが、少年の姿を確認できた時、少女は願いが叶ったんだ、と思いました。これからは誰からの反対を受ける事なく二人だけの世界に浸れる、その期待に駆ける足を速めました。そしてこぼれる笑顔を隠せぬまま、駆け寄った少女が見たものは……
「オイ、帰るぞ」
「きゃあああ!!」
突然背後から降ってきたドス低い声に、は絹を裂かんばかりの悲鳴をあげた。まだその声の余韻は続きそうだったが、続きはアバンの手の平に吸い込まれた。アバンの険しい視線の先を辿って振り向いてみると、そこには月夜に照らされた仏頂面のロン・ベルクがいた。また上げそうになった悲鳴は、押さえられたままのアバンの手に、またもや吸い込まれる。
「いつまでベッドの中でイチャついてやがる。さっさと起きろ」
ベッドを囲むカーテンを手に、ロン・ベルクはふてぶてしい顔で見下ろしている。
「迎えに来て下さったのは有り難いんですが……運転してきたんですか?」
「そんな訳あるか」
険を含む諌める目で見たアバンに、ロン・ベルクはふんと鼻を一つ鳴らす。
「電話すればすぐに駆けつける女の一人や二人はいるのでな」
「「最低ですね」」
「お前ら、それがわざわざ来てやった俺に対する言葉か?」
帰り支度をし、三人で玄関へと向かう道すがら、はアバンに尋ねた。
「先生。さっきの話の続き……どうなったんですか?」
「ん? 続きですか?」
アバンはの手に自分の手を絡める。それに少し驚きはしたものの、ロン先生には知られているし、無理に振りほどく事はしなかった。
「――少女が見た少年は……腕を三角巾で吊っていました」
「……腕?」
「少年も、願ったんですね。二人の未来を、自分の腕と引き換えに」
の目が悲しげに歪んだ。
「少女は声を、少年は腕を、彼らはそれらを同時に失いました。そして哀しみに打ちひしがれた。お互いの失ったものは、お互いにとっても大事なものであったし、失わせるわけにはいかないと思ったんです。彼らはその日は駆け落ちせず、家に戻りました。――後日、少女はまた桜の前に立ちました。そして願ったのです。「私たち二人が一緒にいる未来と引き換えに、彼の腕を返して下さい」と……。すると、失っていた少女の声も戻ったではないですか。彼女は思い当たりました。そう、またもや彼らはお互いに話す事なく、それぞれが桜の精との取り引きを交わしていたのです」
アバンの手を握る力がほんのり強められた。
「何日も経たずして、少女の家が急な転勤で海外に移る事になりました。何年も戻ってこられません。永住覚悟の移住です。二人はこれが永劫の別れになると予感しましたが、抗う事はもうしませんでした。桜が散るのを同じくして、彼らの恋も終わりを告げたそうです……」
「そう、ですか……」
見上げていた顔を下に俯かせ、はそのまま押し黙ってしまった。彼らの足音だけが廊下に響くようになり、さらに侘しさが増長される。
玄関の下駄箱に着いた辺りで、は弾かれたように顔を上げた。
「私……その女の子の気持ちが分かる気がします……!」
「?」
「分かるの……何かに縋らないといられなかったその子の気持ち。苦しくて苦しくて、でも好きなのが止まらなくて……。きっとそんな崖っぷちにいるような心細さを感じていたと思う」
立ち止まってしまったの隣で、アバンも同じく歩を止める。そして俯いているの頭を、アバンは胸に抱いた。髪に唇を当て、しっかりと囁く。
「貴女をあの桜の前に立たせる事はしませんよ。絶対に」
「アバン先生……」
「……」
「二人だけの世界は、俺の前以外で広げてくれ。目障りだ」
すっかり存在を忘れていたロン先生の声で、二人は我に返る。乾いた笑いで誤魔化しつつ、は自分のクラスの下駄箱まで向かった。
教職員用の下駄箱のスペースに、ロン・ベルクの出来るだけ潜められた低い声が響いた。
「――自分の話じゃないか」
アバンの自嘲が漏れる。
「あの子はどうすると思います? やはり私はあそこに行かせてしまうんだろうか……」
「ふん、くだらん」
ロン・ベルクの黒い革靴が乱暴に床に置かれた。
「大体、あいつじゃ契約自体に矛盾が生まれて、履行する事も叶わん」
「矛盾?」
「差し出すのは”一番大切なもの”だろう? あいつがそれを差し出して、お前と結ばれるなんて出来るわけないじゃないか」
アバンは思わず口が開いてしまった事にも気付かなかった。気付いても、しばらくの間、自分の意思で身体を操る事が難しくなっていた。それほど驚愕し、唖然としてしまった。
「……今度奢りますよ。色々助けてもらった」
ようやく出来た笑顔で、ロン・ベルクに笑いかけた。
「俺の飲む酒は高いぞ。覚悟しておけ」
ニヤリと笑い返してやったロン・ベルクは、履いた靴で踵を一つ鳴らした。
校庭の脇に植えられた桜の樹々。
何年もその方向を見てなかった気がしたが、校門へ向かう途中、アバンは久しぶりに視線を向けた。静かな早鐘を感じながら。
驚く事に、もうどれがあの樹だか分からなくなっていた。月に照らされた桜が、急にセピア色になるのを感じた。
ふと、手に細い指が絡んだ。横を見下ろすと、が柔らかに笑って見上げている。頬を桜色に染めて。
もう自分の桜は散らない。
(2008.11.15)
現代パラレルの先生は何故かものすごいナンパ野郎になります……orz
ウチのバーン校長も相変わらずだし^^;
リクエスト下さった方々、ありがとうございました!