全身が凍えるような寒気を感じるのに、服の下には嫌な汗を掻いていた。膝に力が入らなくて、寄り掛かるこの宿屋の壁がなければ、私はとっくに崩れ落ちていたはず。耳に入る街中の音が水中で聞く音のようにボンヤリとしているのに、宿のフロントから聞こえてくる声だけは突き刺さるように鮮明に届く。
「ああ、見ました見ました。今の客でしょう? 随分歳が離れてるみたいじゃねぇですか。デキてんのかね?」
「部屋は一つだったぜ。ったく、あんな大人しそうな顔して子供に手ぇ出してんのかよ。たまんねぇなぁ」
「女のほうは黒い髪でしたっけ。そんなに子供でしたかい?」
「薄荷の匂いさせてんだからそうだろ」
「ああ、なるほど。にしても羨ましいぜ。何も知らない女を自分の好きなように教え込めるんだからなぁ」
「ヘタすりゃ捕まるぜ。オレはゴメンだね」
ぐるぐると頭の中がかき混ぜられたようで吐き気がする。脂汗が肌を伝った所が、蟲が這ったみたいで気持ち悪い。私はジワジワと迫り来る真っ暗で粘着質な視界よりも、目蓋の裏の方がマシだと思って、きつく目を閉じた。
周囲からそんな風に見られていたなんて知らなかった。
離れれば血反吐を吐く思いで苦しんで、抱き締められれば天にも昇るような喜びに包まれる、そんな自分の全てをかけた愛し方をしていたと思っていた。この愛は私の生命であり、私自身。何にも代え難い宝物のような気持ちなのに、それをまるで汚いモノであるかのように見られていただなんて。自分の全てを否定されたようで、私は驚愕と落胆と、そして悔しさで、涙と同時に熱く込み上げるものを感じた。
ずっとそんな目で見られていたのだろうか。私は頭の中にある今まで出会い、すれ違っただけの人でも、それらの顔を必死になって探した。どんな顔をしていた? どんな目で見ていた? 次々に巡る人の顔をアルバムを乱暴にめくるように思い起こしたけど、よく分からない。嫌な焦燥感に自然と眉根をひそめる。
そういえば、今まで宿に入った時、記帳をするのはアバン先生だった。何気なく習慣になってしまっていたけれど、思えば、宿の主人の下卑た目から私を避けるためだったのかもしれない。だって私の記憶する風景はいつも、先生の大きな背中があった。いつもいつも、先生の腕がそばにあった。静かに佇む大樹のように、私を守ってくれていたんだ。……そう、アバン先生は知っていたのね、そんな周囲の目を。
この世界は私がいた世界よりも性には奔放であったけど、やはりどこも子供との「不道徳な関係」は歓迎されないらしい。でもそんなリスクを負ってまで、先生は私を選んでくれたのだ。批難されるかもしれないのに、あえて選んでくれたその愛の深さを、私は今更ながらに気付いた。
私は自分の足を見つめていた顔を上げた。
(そ知らぬふりをしなくては)
先生と共に在りたい。それが私の一番の願い。本来ならば身を引かなくていけないのかもしれないけれど、どうしてもその願いを持ち続けて策を講じたかった。だからこれからもその願いが叶うならば、先生のそばにいるのに相応しい歳になるまで、私は先生の邪魔にならないようにしないといけない。こんな事で傷付いているなんて、筋違いもいいところだ。傷付いているのは私ではなくて、あらぬ理由で蔑視されてしまっている先生なのだから。そしてそうさせてしまっているのは、なによりこの私なのだ……。
「お、裏口に荷物が届いたみたいだぞ」
「じゃあ、台所に運びますか」
宿の主人と従業員は連れ立ってフロントから姿を消した。私はまだ笑っている膝を叱咤してどうにか動かし、受付のカウンターの下に忘れた荷物を取った。そして静かに階段を昇っていく。
いつも通り振る舞わないといけないと思いながらも、さっきの言葉がいつまで経っても耳にこびりついて離れない。何度も何度も、頭の中であの会話が繰り返されると、そのたびに胸が締め付けられてしまう。その苦しさに眉をしかめ、でも顔に出してはいけない事を思い出して顔を強張らせる。そんな事を繰り返しながら廊下を歩いていると、あっという間に部屋の前に着いてしまった。私は深呼吸を一つして、ドアのノブに手をかける。
「先生、ありました、ありました!」
「そうですか、お帰りなさい」
先生は荷物を開けながらこちらに一つ笑顔を寄越した。何も気付かせなくて済んだようで、先生はまた荷物へと視線を落とした。私は安堵にこっそりと息を一つ漏らす。
ふと、私は荷物に向かうその背中を見た。クロコダインみたいに広くて厚ぼったいわけじゃないのに、どうしてこんなに大きく見えるんだろう。私の手が交差する時のこの背中は、どうしてあんなに温かいんだろう。いつでも誰かの前で盾になって傷付いてるのに、どうしてこんなに優しいんだろう。私は目頭を熱くさせながら、アバン先生に飛び付きたい衝動に駆られた。
「――ま、話はつけてもらっているし、大丈夫ですかね。それじゃまだ明るいですが、行ってみますか」
「あ、えと、ごめんなさい、どこに?」
目を丸くして驚かれてしまった。いけない。先生が話してくれていたのに、私はぼんやりしていて全く聞いていなかったのだ。いつも通りにしないといけないって決めたばかりなのに、この有様だ。
「ですから酒場に」
「ああ、そうでしたね。酒場。はい」
そうだった。今度のダンジョンの攻略にどうしても必要な『ラインフォルトの日記』。世界でただ一冊のその日記を所蔵しているセルマさんという人に、譲ってもらう為に私達はここパプニカまで来たのだった。先生は人づてに交渉済みだったらしい。あとは譲り受ける為に赴くだけだったのだから、「はい」と言ってついていけば良かったのに。私はほんの少しの動揺でブレてしまう心を、必死になって覆い隠した。それでもきっと不審に思われてしまっただろう。現にアバン先生は眼鏡のブリッジを押し上げて私を注視する。その視線から逃れるように、私は背を向けた。
「?」
「ごめんなさい、ボンヤリしてて。今日は外が賑やかなのね、ついそっちに気がいっちゃって」
努めて明るく言いながら、部屋の窓から外を覗いた。確かに今日のパプニカの城下町は、普段とは違う様相を呈していた。極彩色の旗が街中に溢れ、人々の笑い声と賑やかな楽器の音が止む事なく聞こえてくる。先生は私の横に来ると寄り添い、一緒になって窓の外を眺めた。
「ああ、そういえばそうでしたね。今は年に一度の祝福祭の期間ですから。毎年この時期にはサーカス団がやってきて、パプニカの街がそれはもう賑やかになるんですよ」
「楽しそうですね」
「ええ、セルマさんに会った後、街を見てみましょう。色々振る舞われるし、きっとも気に入りますよ。ホラ、見て御覧なさい、仮面を付けている人がいるでしょう? 老若男女とも、サーカス団が貸してくれる仮面を付けて、祭を楽しむんですよ。本格的な仮装をする人もいますし、ああホラ、あれなんてミイラ男だ」
「あはは。おかしいの」
「じゃあ行ってみましょう」
「はい」
燻ってた気持ちをこの賑やかさに乗せて、私はどうにか笑顔を作りながら先生の後をついていった。
祭りで城下町は大いに賑わっていた。
仕事もみんな休みなのだろう。酒場はこんなに日も高いうちから大入り満員だ。グラスを高々と掲げてぶつけ合わせる音、野太い笑い声、奇天烈な踊りで揺れる床。酒場は紫色の煙の中、異様な熱気と高揚に包まれていた。それに酒場にいる女性は皆、襟元が大きく開いた服を着て真っ赤なルージュを乗せているような艶やかな人ばかり。男だらけのこの酒場では、私みたいな子供でも女として目立ってしまう。私は値踏みされるような視線や口笛を受けながら、人垣をかき分けて進む先生の後ろを俯きながら進んでいく。
「お楽しみの所、失礼します。セルマさんですか?」
アバン先生の声に振り向いたのは、口元にたっぷりの髭を貯えた中年の男性。すっかり出来上がってるのか、顔が赤黒い。
「ん? そうだが……アンタは?」
「アバンと申します。マックスさんからお話がいっているかと」
私も先生の後ろから会釈した。
「ああ、あんたらか! この日記を欲しがってる二人組みっていうのは!」
セルマさんは雷でも落ちたかのような大きな声で笑った。色んな音がひしめき合ってる酒場なのに、隅まで響き渡るほどの声量で。当然、何事かと幾つもの赤ら顔を向けられる。セルマさんと同じテーブルの人たちも、赤銅色の顔に好奇の目と薄ら笑いを浮かべて私達を見た。
「ふーん。二人組みの冒険者っていうからどんな野郎かと思ったら、変わったメンツだなぁ! なんだ、アンタらデキてんのかい?」
途端にテーブルを囲む人たちの目が下卑たものに変わり、耳に障る笑い声を上げた。私は抑えがたい激情に、全身の血を沸騰させる。さっき宿屋で感じた震えが再び襲い、目の前が火花が散ったようにチカチカする。
「おいおい! 兄さん、大人しそうな顔してやるじゃねぇか!」
「全く、イイ趣味してやがる!」
「お嬢ちゃん、いくつだ? 可愛がってもらってんのかい?」
ドッと沸き立つ笑い声に、とうとう私の中で何かが弾けた。
「そんなわけないでしょう!? 先生を侮辱しないでっ!!」
酒場に鋭い沈黙が走った。だけど私はそんな事も気にせず喚き続ける。
「アバン先生! 申し訳ありませんが、私は場違いのようですし、先に出ています! それでは失礼致します、先生!!」
私は「先生」の所を強く強調した。そして誰の顔も見ずに足早に酒場から立ち去った。きっと私はもう、しばらく酒場などには立ち寄らないだろう。
涙で顔をぐちゃぐちゃにしている私なんて余所に、街は祝福祭で盛り上がってる。
腰掛けたベンチから見る街には、仮面を付けた人達がたくさん行き交い、リズミカルなタンバリンの音が溢れ返っている。楽しそうな笑い声と美味しそうな食べ物の匂い。そのどれもを、私の身体は受け取らなかった。ただ消え入りたい情けなさに身を縮込ませていた。
やっぱり私は子供だ。
感情のまま喚き散らして、自分を律する事が出来ない。きっとあの時、他にいくらでも処し方はあったはずなのだ。それなのに一番最悪な方法を取って、アバン先生に恥をかかせてしまった。自分の愚かさに悔し涙が止まらない。私は嗚咽を隠すようにしても震えてしまう肩を押さえ、鼻を啜った。
その時だった。赤くなった鼻を掠めたのは薔薇の匂い。一際強いその香りについ目が行き、私は顔を上げた。
そこには私の前を通り過ぎる、女性の冒険者が居た。年の頃は二十代。冒険者稼業をしていても女の主張を忘れていないんだろう、唇には紅を引き、薔薇の香りを纏っていた。
薔薇の香りは成人女性の証。冒険者が普段、傷と疲労を癒す為、それに体臭を消す為に塗る薬油からは薄荷香がする。だけど女性冒険者達はそんな薬油にもほんの少しの色気を混ぜ、過酷な日々の中でも自分を飾る事を忘れない。つまり薄荷の匂いは男か子供。私が気にしていなかったそんな匂いの中でも、宿屋のように周囲の目は人を判別する材料になっていたんだ。どんな風に見られているかようやく気付いた時、恥ずかしさから居たたまれなくなり、私は人目のない所に逃げ出したくなった。
ふと、視界に大きな縞模様が広がった。私は目の前の縞模様の切れ目を探すように見上げる。首を仰け反らせてようやく視界に入ったのは、真っ白な顔に大きな口、そして大きな赤い鼻。私は一度びくりと身体を揺らした。大きな大きなピエロは、笑った顔の形のまま私を見下ろしていた。
「え……と」
何て言ったらいいのか分からない私に、ピエロは無言でグラスを差し出した。その体躯からおもちゃのように見えていたお盆とそこに乗るいくつかのグラス。それはおもちゃではなく、通常サイズのグラスだったらしい。目の前に出されて、やっと本来の大きさが分かった。琥珀色の液体が入ったそのグラスをおずおずと受け取ってみたが、グラスからは酒精の香りがぷんと漂う。
「これ、お酒? ダメよ。私、未成年……」
そこまで言って周囲に目がいった。よく見ると、私と同い年ぐらいの子も同じグラスに口を付けている。もしかしたら、このお祭りの間は成人に達しなくても暗黙に飲酒を許されているのかもしれない。この世界に来て二年。勉強したつもりでもまだ慣習を覚えきっていない不甲斐無さをまざまざと感じた。先生の側にいても不都合をかけないように努めようと思うなら、もっと早くに全てを覚えられるはずなのに。自分の愛の深さがそれだけのものだったのかと、私はまた己の情けなさに絶望してしまった。
受け取りかねていた私をいぶかしむように、大きなピエロは大げさに首を傾げる。やはり皆、受け取るのが当然らしい。
「あ、ああ、ありがとう。頂くわ」
ようやく受け取ってもらえて満足したのか、ピエロは慇懃な礼をして再び酒を振る舞いに去って行った。
私は貰ったグラスに口を付けず、グラスの表面にボンヤリと映る自分の顔を眺めていた。
化粧っ気もなく、目も鼻も赤くして、しみったれた華のない顔。
(違う。年じゃない)
私は気付いた。私に足りないのは年齢だけじゃなかった。己を客観的に見て、自分が一番良く見える状態を保持しようとする努力。先生の隣にいても相応しい人であろうとする向上心を持った姿勢。それらが絶望的に欠けていた。私は優しいアバン先生に甘えて寄り掛かって、怠けていたんだわ。
再び視界が歪む。涙を零すまいと、私はグラスを勢いよくあおった。思った以上に甘い液体は口中に絡まり、どうにか喉を通り過ぎていく。そして通った後から熱を感じ、鼻に抜ける奥深い芳香が頭のどこかを緩く刺激した。
私はベンチの背もたれに背を預けると、そのまま空を仰ぐ。お酒のせいだろうか。なんだか、極彩色の旗がより鮮やかに見えるみたいだ。
どのくらいそうしていたんだろう。
澄み渡る空に、街中を架け繋いでる色とりどりの旗。変化もなく視界に広がっていたそれらを遮るように、突如、奇妙な仮面が音もなく割り込んできた。
「……ッ!!」
私は悲鳴を上げそうになったのを寸でで止め、慌てて身体を起こし振り返る。と、そこには、頭から足までをすっぽりと真っ青なマントで覆った、仮面の人が立っていた。能面のようにのっぺりとしたその仮面は和風なピエロといった感じで、夜にでも見たら間違いなく悲鳴を上げていただろう。
すると顔を引きつらせて驚いている私へ、能面ピエロの人は声も無くグラスを差し出した。そのグラスはさっきの大きなピエロに貰ったものと同じ。まったく、無言で酒を振る舞うのが流行っているんだろうか。少し心臓に悪いわ。でも、やけにこの液体が美味しく感じられた私は、さっきよりも潔く受け取った。大きなピエロに貰ったお酒とは少し違うのか、綺麗な翡翠色をしていた。
「ありがとう」
私がお礼を言うと、能面ピエロは自分も持っていたグラスを、私の前で掲げてみせた。乾杯、っていう事なんだろうか。私も倣って掲げてみせる。
有りがたく頂戴しようとグラスに口を近づけると、なんと能面ピエロは私の隣に腰掛けたのだ。そして仮面の下半分が開いていて露わになっている口元にグラスを運び、一口二口、と流し込む。思えば、お盆を持ってない。どうやら大きなピエロのように、街の人に振る舞うサーカス団の人ではないらしい。一人で沈んでる私を哀れに思って近付いたのか、不純な目的なのか、仮面とマントで何も窺えはしないけど、せっかくグラスをくれたのに追い返すわけにもいかない。さっきからふわふわしている頭では、それ以上考えるのが面倒くさくなっていた私は、頂いたグラスをあおった。翡翠色のお酒は、さっきよりもスルスル入っていく。
「お祭り、楽しいね」
私の言葉に答える事も無く、能面ピエロはチラリとこちらを見た気がする。でも相槌が欲しかった訳じゃないし、私は気にせずそのまま喋り続けた。
「賑やかだし、みんな楽しそうだし、非日常的な雰囲気がどこか特別だよね。どこもお祭りっていうのは雰囲気は同じなんだなぁ。それにこのお祭りは、あの仮面を付けてたら誰だか分からないものね……。――私も、仮面を借りてこようかな……」
私はグラスの中に残ってた翡翠の酒を乱暴に飲み干す。
「いつまでもこのお祭りが続くといいのに……そうしたら、こうして歳も曖昧にしてくれるし、先生の側にいるのがこんな子供だなんて、誰もすぐには思わないでしょう……!?」
じわじわと目の周りが熱くなる。アルコールのせいだろうか、今までにない速さで点火するように感じた。堰き止めていたものがなくなって、無尽蔵に溢れ出す。
「違う、違う……! さっき思ったばかりじゃない! 歳じゃない、私がバカなだけだって! もう成年まで幾らもないんだもの、それまで歳以上に見て貰える努力をしなくちゃいけないのに! 足りないものが多すぎる私には、考えなくちゃいけない事がいっぱいあるのに! そのままの自分で否定されるのが嫌なら変えるべきなのに……! 先生は一つも悪くないのに、私が何もかも子供だから、あんな目で見られてしまう! 嫌よ! 先生をそんな目で見ないで! 責めるなら私だけにしてよ……っ!!」
嗚咽に震える声は低くて濁ってて、とても汚かった。咽び声を内に籠めるようにすると、堪えきれない激情が今にも身体を弾けさせようとする。爆発しそうな身体を押さえ込もうと、強く瞑っていた目を握りしめていたグラスにふと映した時だった。全身の熱が急激に冷めていくのを感じた。
何て醜い顔なんだろう。
泣き腫らした顔は、自分を律する事が出来ない情けなさをまざまざと表していた。今の自分のする事全てが、どれも吐き気がするほどの嫌悪を感じる。言ってる事もやってる事も滅茶苦茶で、私はもう何も口にしたくなかったし考えたくなかった。
それでも迷惑をかけてしまった隣のピエロには一言言っておかないといけない。そうしたらすぐに立ち去ろう。そう思い、私は冷めた頭をゆるゆると振って、横の能面ピエロに少し首を傾げた。
「ごめんなさい、急に……。何やってるんだろうね、私」
「そうですねー。見ず知らずのピエロにこんなに心許してしまうのは、ちょっと危険ですよー」
耳を撫でる、いつものアルト。聞こえるはずがない聞き慣れた声に、私はきっと目が零れそうなほど見開いていたはずだ。浮かそうとした腰はそのままに、声もなく凝視する私の横で、その人は仮面を頭の上にまでずらした。
仮面の下から現れたのは、やはりアバン先生だった。
「あ、ア……アバン先生……!?」
「すみません。驚かすつもりはなかったんですが、タイミングを逸してしまいまして」
アバン先生はにこやかにそう言うと、ようやく仮装が解けて解放されたのか、ひと息吐いた。そしてくつろぐように足を組み、グラスの酒に口を付けた。
「せんせ……ど、うして、ここに……」
「まったく……。私だからいいものの、悪い人だったらどこかに連れて行かれちゃってましたよ?」
震えながら紡いだ私の疑問への答えは清々しくスルーし、先生は普通に話を続ける。
「ああ。私が悪い人でしたかね」
心臓に杭が穿たれたような痛みを感じた。
顔面を蒼白とさせている私を知ってか知らずか、先生は微笑を浮かべたまま私を見た。私は逃げ出す事も出来ず、その瞳に捕まってしまう。
「どうして、泣いているんですか?」
ただただ、穏やかな声だった。
「どうして、そんなに自分を苦しめているんですか?」
優しいけれど強い瞳は、私を逃さない。有無もなく返答を強いる。
「――アバン先生が、いわれのない非難を浴びせられてるのが、嫌だから……。そして、そうさせてしまっている私が、ものすごく嫌だから……!」
喉が震え、上手く声にならないけれど、私は必死になって答えた。先生が求めるものは、全て差し上げたいから。
「今まで御免なさい、先生……! 私、これから化粧もします、薄荷の薬油もやめます、先生にご迷惑もおかけしません……! だから……だから、もう少し待って下さい! もう少し、先生のそばに居させて下さいっ……!」
私の想いの吐露に、先生は顔色一つ変えない。身体を私のほうへ向けるように少しだけ直すと、ゆったりと話し始める。
「化粧も、薬油も、が好きなものをすればいい。私は貴女が選んだものならば、どれも愛しく見えるのですから。貴女がどう変わろうと変わるまいと、私の貴女への愛だけは変わりません。今、この目の前にいるを愛しているだけなのです。――それに貴女が泣く事は何もない。勿論、私もこの状態に悲観など一切していませんよ。恥じる事など、私は何一つしているつもりはありません。を愛している事は私の誇りだ」
私の身体中に染み渡るその優しい声が、私を魂ごと揺さぶる。息が出来ないほど胸が詰まり、全ての感情が快感となって総毛立たせた。私は思わず自分の身体を抱き締めた。
アバン先生はおもむろにベンチから立ち上がると、仮面を外し、青色のマントも全て取り去った。
「ああ、愛する!」
そして先刻の酒場でのセルマさんよりも、怒鳴った私よりも、一里先にまで届くような良く通る声で愛を告げながら、大仰なほど右手を身体の前で回し、胸に添えた。そして右脚を後方に下げると地面に膝をつき、左手を横へ差し出して深く優雅なお辞儀をして見せた。流れるように美しい所作は、まるでお伽話の王子様のようだった。
「黒と白。空と大地。花と焔。これらがいかに分かれ隔てる運命だとしても、私達を阻むものは何もない」
朗々と語られる愛の言葉に、広場にいた大勢の人達が何事かと覗き見る。声にしないまでも、その目は好奇に満ち、アバン先生に向けられる。私は慌てて先生を制しようとした。
「せ、先生!」
「私に降り注ぐ貴女の笑顔は、私の胸に満天の星のような煌きを宿らせる。貴女と生きる喜びは、生命の温もりとなって私をこの地に生かす。胸に抱く貴女の愛の言葉は、海に還るその時まで、夢のような歌声で私を包むのです」
「やめて先生、みんなが見てる……!」
大仰でも、これは全て先生の本当の言葉。真っ直ぐに私を見つめる瞳が、業火のような熱さを持ってこの身を焦がすよう。こんなにも真剣な愛の言葉と瞳なのに、アバン先生を汚らわしいもののように見られるのは我慢がならなかった。私は溢れる涙を拭いもせず、止めたくてもなお続く告白に、行き場の見つからない手を中空に彷徨わせた。
「待って、先生ってば」
「私は願う。とても浅ましい願いだ」
「やめて……やめてよ……!」
私の制止も耳に貸さず、先生は声高に愛を叫び続ける。私達の愛が汚されてしまう。その恐怖に私はもう周囲の人達を見る事が出来なかった。耐えるように両手で頬を覆ってその場に立ち尽くした。
「――それは貴女の幸せ。私は、私の隣で幸せでいる貴女だけを、願っている。それ以外を望まない、とても愚かで醜悪な願い」
泣き声の奥で制止を口にするも、最早言葉になっていない。私は弱々しくかぶりを振り続ける。
「なのに、こんな私にも貴女は光を与えてくれる。嵐の夜も極寒の朝もこの胸に灯らせてくれる柔らかく優しい光。私の名を呼びながら、私の一切の愚かさを赦し、無上の光を照らしてくれる。この光の名を知っている私は、報いる為にもこの一言に魂を籠めるのです」
しんと静まる。
痛々しい沈黙がとても長く感じられ、私は瞑っていた目を開けた。すると、跪いていた先生は待っていたかのように私の瞳を捉え、左手を私へ差し出した。
「貴女を愛しています」
途端に割れんばかりの歓声と口笛が上がった。
爆発でも起きたんではないかというほどの音の衝撃は、私をよろつかせた。周りを見渡すと、私達の周りには驚くほどたくさんの人がいたらしい。ぐるりと囲まれた人垣は切れ目もない。しかも私が想像していた冷たく蔑む目はどこにもなく、どの人も笑顔で喜びに沸き立っている。私は困惑に目を回しそうになる。まるで大掛かりな冗談でもされているようで、思考が上手く追いつかない。私はおろおろと縋るように先生を見た。先生は差し出している左手を、笑顔と共に小さく揺らした。どうしたらいいか分からない私は、誘われるままその手を取った。
すると再び歓声が上がって、私は驚愕に身体を震わせた。その身体をアバン先生は優しく受け止めてくれた。いまだによく分かっていない私とは裏腹に、先生はすごく嬉しそうに笑っている。これが何なのか聞こうとした時、周りの人垣がわっと迫ってきた。すぐ近くに笑顔がいくつも並び、口々に「おめでとう」「素敵よ」「兄さん、やるじゃないか」という祝辞や賛辞をくれた。
次々に視界に入る人々の顔と同じ勢いで、私の視界もぐるぐると回る。極限まで高まった緊張はついに限界となり、私は薄れ行く意識をアバン先生の胸の中で手放していった。
「ちょ、!? 大丈夫ですか!?」
先生の声が遠い。それにすごく眠い。引き摺られるように身体を動かされると、頭の上から先生の怒声に近い声が響いた。
「これ、バルジベリー酒じゃないですか!? 最悪の飲み合わせだ……!」
私が大きなピエロに貰ったグラスの中身の事だろうか。よく分からないけれど、周りで弾けて重なった笑い声に、私も可笑しくなって笑った気がする。「これからなのに!」という先生の嘆きの声を最後に、私の意識は沈没した。
タンバリンとラッパの音はまだ鳴り響いている。
(200810.16)
いつまで経っても終わらないので強制終了しました。
誰かこの人達を止めて下さい(切実)
リクエスト下さった方々、ありがとうございました!