細い水滴のカーテンがこの国全体を覆っている。
テランの雨は恵みというよりも、何かを覆い隠すようにひっそりと降り注ぐ。静かに、静かにと、有無を言わせない安息は、暗がりが持つ優しさに似ているようにも見える。
灰色の空と深緑の木々の境が曖昧だ。静かだが、成している形を強制的に崩す高圧的な強さも持っているのを、この国の人々は本能的に感じているからなのだろうか。ただ息を潜めてじっと耐えるのが当然であるかのように、今日も外には生き物の気配がしない。――しないはずだった。
ラーハルトにはこの雨が心地良かった。
忌むべき肌と耳を隠してくれるから。目深にフードを被らなくても済むから。鬱陶しい言葉をかき消してくれるから。
それももう昔の話だが、こんな日は俯きながら陽の下を歩いては徐々に心を尖らせていった、幼い頃の自分を思い出す。そんな自分が顔を上げて往来を歩けるようになったのはバランに出会ってからだった。バランの庇護を受けてからはフードを被らなくなり(取るように言われた)、力を付けて身を守る事を覚えた。
命の恩人であり師であり父であったバランは、ラーハルトの生きる指針であったし全てであった。それにバランのように心を開けるのは、彼の子息であるダイの他にはいないと思っていた。だが、先の戦いで友と呼ぶべき男も見つけた。背を預けられる頼もしい仲間も見つけた。バランに教わった事のないこれらはラーハルトを戸惑わせもしたが、悪い気が起きなかったのも正直な所だった。
そしてバランに教わらなかったもう一つの心の起伏。それがテランの湖畔に静かに佇む東屋に、その姿を薄っすらと浮かべている。
「何をしている」
「あんたを探しに来たの」
柱に寄り掛かっていた身体を起こし、はラーハルトに向かって腕を組んだ。
「あの戦いから久しぶりに皆が集まった後なのに、あんたってばいつの間にかフラっといなくなっちゃうんだもん」
剣の岬での会同後、ラーハルトがまずしたのはバランの弔いだった。
普段のラーハルトからしてみれば、何よりもダイの捜索を優先してもおかしくなかったかもしれない。だが彼はベンガーナの南端へと向かった。
パプニカに置かれた剣の岬で、捜索で世界中に散らばった仲間たちが数週間ぶりに会した日。ラーハルトはそんな場所に興味も持たず赴いていないが、ロン・ベルクからもたらされたダイ生存の可能性という情報は耳にした。剣の宝珠に希望を見出し、皆が落としていた肩をピンと張り一縷の望みに沸いていた時の事だった。
普通の人間だったら数週間瀕死の状態で放置されていればとっくに死んでいるだろう。だがダイは生きている。つまりは何かの庇護の下に、生命の危機だけは回避できているのかもしれない。生きているという希望が見つかった以上、一分一秒を争い血眼で探す事はないと――もちろん早いに越した事はないが――ラーハルトはそう瞬時に弾き出した。生きていく上で培ったその合理的で現実的で時には冷淡な優先順位の置き換えは、精神的にも肉体的にも自衛の為には自然な事だった。
「どうしてここが分かった」
「バランの、お弔いをしてるんでしょ」
質問の答えになっていない事と言い当てられた事に対して、ラーハルトの眉間に刻まれた皺はより深く影を落とす。
「本当はサッパリ分からなかったけど、アルゴ岬に竜の騎士と縁深い”奇跡の泉”っていうのがあるってヒュンケルから聞いたの。もしかしたらと思って行ってみたら、綺麗なお花が添えてあった」
は組んでいた腕を下ろし、張っていた肩を縮める。そして目の前の男に無意識に見せまいとしてるのか、寂しそうな顔を地面に向け、東屋の柱に背を預けて腰掛けた。
「あの小さなお墓は、痛み具合からしてあんたがバランの為に作ったものではないわね。きっと……バランがダイのお母さん、ソアラさんに作ったもの……」
「――そうだ。一箇所に思い入れを持たなかったバラン様だったが、あそこだけは特別だ。眠られるなら、きっと奥方様の隣を望まれるだろう。だから行った」
ラーハルトは仏頂面のまま、髪の雨露を払いながら東屋に入る。のテリトリーに入るようで面白くないが、心地良いと言ってもこのまま雨に晒されるわけにもいかない。それにまだ聞きたい事もある。
「で、何でここにいる?」
苛々とする気持ちを抑えようとしているだけ、コミュニケーションの進歩があるのかもしれない。だがはそんなラーハルトの様子に気にもせず話し続ける。
「バランに縁あるところを巡りそうだと思ったから。ここの湖の底には竜の騎士の神殿があるし。――まぁ他に思い当たるところもないんだけど、あんたがベンガーナに寄るはずもないし、さ。ルーラで先回りして待ってたの。ラッキーだね、私」
両膝に乗せた腕から顔を上げ、無邪気ともいえる笑顔を見せた。
実際、騒がしいベンガーナに立ち寄る気はさらさら無かったし、泉で夜を明かすのも二人の邪魔をするようで悪い気がした。休む間もなくそのまま北上しテランへと向かったのだが、その全てを見透かされているようで居心地が悪い。ラーハルトは盛大な嘆息を吐くと、東屋の中央の装飾台に背中を預けて腰を下ろした。夜を徹してここまで行軍してきたのだ、流石に足を休めたい。言い訳のような呟きを頭に浮かべながら、装備品を外していく。不機嫌極まりない声色で、質問する事だけを繰り返す。
「何の用だ」
視線の端にも掛からないよう顔を背けながら問い質す。だがやはりは嫌な顔一つしないで、むしろ当たっていた事に喜んでいるのか、ニコニコと笑顔のまま答える。
「もう一度、誘いに来たの。私とヒュンケルと、三人で旅に出ようよ」
「その話は断ったはずだ」
「この前手酷く断られたんだから、そんな事知ってる。だからもう一度誘ってるんだってば。ヒュンケルはその気だよ」
「……いいか?」
ラーハルトは向けまいとしてた顔を向けてまで、しっかりと眉根の皺を増やして寄越してやった。
「この際ハッキリ言ってやる。俺はパーティがヒュンケルとだけなら共に旅に出てやらんでもないんだ!」
指を突きつける事も忘れず凄むが、には全く堪えてない。
「全然ハッキリしてないじゃない。私が邪魔だって言えばいいのに。優しいんだ」
見当違いな言葉とそのヘラヘラした笑みが、ラーハルトの苛々を更に募らせていく。確かにいつもの自分なら幾ばくの隙のないもっと直接的な言葉を使っていたはずだ。それこそ「邪魔だ」と。この女といると、こうして調子を狂わせられるから嫌なのだ。それなのにどうしてなけなしの気遣いをしてしまうのか、その違和感に、ラーハルトは更に眉根を寄せる。
は尋ねた。
「どうして私が邪魔なの? 足手まといにはならないつもりだけど」
一応これでも最後の戦いを生き抜いてきたのだ。多少の自信は持っている。
「女は弱い」
「ちょ……! いきなり男女差別!?」
「母も弱かった」
の動きが止まる。
「魔族の父はもっと弱かったがな。まぁ、父はどんな者でも避けられない、魔界の呪いにも近い病気に蝕まれたらしいが」
こんな話をしはじめた自分を驚きもしたが、こんな雨だ。すっかり雨足が強まり、この東屋だけが雨音からぽっかりと取り残されている。つまらない昔話をしても、かき消してくれるはずだ。
「残された母は元々弱っていた身体を酷使して、俺のせいで迫害されていても働き続けた。身体が弱いんだからと止めても、休む事などしなかった。案の定、母も病で死んだ。女は見るからに弱いんだ、それなのに無理をすればたたる事を知らない。だから近くで見るのは御免なんだ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。そんな話知らない」
は腰を浮かせてラーハルトに詰め寄る。今まで見せていた笑顔などどこかに吹き飛んでいる。
「あなたも混血児で、迫害……人間に、迫害されていたの……?」
「誰からか聞いてないのか」
「聞いてない!」
「俺のこの姿を見れば分かるだろう」
「そんなの知らない! じゃあ、あなたはバランに育ててもらったの!?」
なんだかおかしな事を聞く。自分が半魔であったことも知らず、しかもその事を聞くわけでもない。バランに育ててもらったか否かは、そんなに詰め寄るほど聞きたい事なのか。ラーハルトは勢いに圧されるように頷いた。
「……家族だったんじゃない……! 私、てっきりバランを主君か師として見てたんだと……おも……っ」
の言葉が詰まった事に不思議に思ったラーハルトは、振り向いてから驚いた。思わず眼を見開く。
「何、泣きそうな顔してるんだ」
「あなたが泣かないからでしょ!」
その言葉を皮切りに、の頬に幾筋もの涙がこぼれる。
この弔いの旅がラーハルトにとってどんな意味を持っているものなのか、痛いほど感じ取れた。自分が泣いてどうとなる事じゃないと分かっているのに、彼の受けていた痛みがには鋭利な刃物のように突き刺さる。血と戦いに翻弄され、戦士としてその生涯を閉じた者、閉じようとしていた者。あまりに辛い生を背負った彼らの安息は、墓の中か墓前しかないのか。冷遇されてきた後の、きっと大きな救いの手だったはずなのだ。ようやくする事が出来たその手から別離のけじめが、短すぎる墓前での安息とは、にはそれがとても哀しい事のように思えた。
「ふん、どいつもこいつも」
そういえばあの時も、アバンの使徒である二人の男は人目もはばからず男泣きしていた。自分の感覚が麻痺しているのだろうか、そんなに涙を誘う話だとは思わない。誰を恨んだらいいのかも分からない泥まみれの生活には、涙する暇も周囲の人も有りはしなかったのだ。つくづくアバンの使徒は皆、甘ちゃんばかりだと思う。あのへらついた眼鏡男の顔が一瞬脳裏を掠めていった。だがやはり、悪い気はしないのは何故なんだろう。
は嗚咽を我慢して身体を震わせては、両方の手の甲で何度も溢れる涙を拭う。唇を噛み締めて零れそうな嗚咽を何とか止めようとしてる姿は痛々しかった。その痛々しさは自分が受けてきた傷がどれほどのものだったのか、そして受け入れてくれる者がいるという事を知った。
そう思った次の瞬間には、ラーハルトの腕は伸びていた。
腕の中で止まった息は、もう二度と動かないんじゃないかと思うくらい長い間、止まっていた。けれどしばらく抱え込んだままにしてやると、再び動きだして少し安心した。小さな小さな、とても小さな泣き声が埋めた胸に吸い込まれていく。
こんな自分の行動に静かに驚愕していた。だから嫌だったんだ、この女と行動するのは。未知の感情に振り回される予感がしていたのだ。必要のない感情に翻弄される暇も、感傷に浸る暇も自分には無いというのに。ここで竜の魂を弔ったら、その足ですぐに主君の救出に向かうはずだったのに。
それなのに、もう少しこの雨が降っていてくれてもいいと思う気持ちも隠せないのだ。
小さく上下していた肩に手を掛け、胸から離してやると、俯いている顔を覗き込むようにして顔を寄せた。
「いい加減、泣きやめ」
「もう泣いてない」
「強がるな」
「強がってない」
「震えてるぞ」
「震えて、な……」
ちっぽけな強がりはラーハルトの唇に吸い込まれた。
冷たいと思われた彼の肌は意外なほど熱かった。触れ合っている肌、寄せている顔のすき間に感じる空気も火傷しそうにひどく熱い。うるさい小娘の口を封じる為だけとは思えない熱っぽさで、何度も深く唇を合わせる。
見開いたの目がやがて閉じるまで、その熱い口付けは止まなかった。
「もうお前は泣かなくていい」
すぐに唇が触れそうなほどの距離に、囁きが届く。
「代わりに、空が泣いてくれる」
に再び口付けの雨が降る。
湖の水面を跳ねる水音が、重なり合った二人を包み隠した。
(2008.8.31)
竜の像があるあの東屋みたいなの、ホントは壊れっぱなしなんですけどね。 いつの間にか直ってたというステキな設定を全力で押し出します。
ちなみに途中、あんた→あなたに変わるのは仕様です。
リクエスト下さった方々、ありがとうございました!