わたくしは見てしまったのです。
 薫風届く午後の書庫で、わたくしの友達と仲間が密やかな逢瀬を交わしているのを。
 あろうことか、連綿と受け継がれている人類の叡智の結晶とも言うべき書物たちが、身の丈をゆうに超える本棚に整然と、且つ無口に佇んでいるというこの静謐で、です。本来ならば無機質なものにのみ向けられる「知識を得たい」という清廉な欲望だけが、この知識の聖域では唯一許されるというのに、今彼らの間には、まるで真逆の欲望が迸っているのです。
 少女の身体を貪らんと食って掛かるケモノのごとく、男は身体を隙間なく合わせています。絹のように流れる美しい銀髪から覗く表情も、数多の宝石もその輝きを濁らせてしまうほど美しいのに、それは黒い欲望を隠しきれない雄の顔をしていました。まるで獲物を前にした空腹の銀狼。そして組み敷かれる少女はさながら黒ウサギ。長く豊かなその黒い睫毛をふるふると細かに震わせて、捕食を前に慄いています。いえ……もしかしたら歓喜に打ち震えているのでは? だってその証拠に、少女の頬はまるで愛を告げる前に贈られる大輪のバラのように、真っ赤に染め上げられているではありませんか。
 寄せる顔の間の空気が、濃密で甘く熱っぽい。まるでバルジベリーのリキュールを生で被ったよう。何も知らぬ女の子を酒の力で陥落させるのに、城下の男の間では密やかな常套とされているバルジベリーのリキュール。顔ばかりは良いこの甲斐性ナシ男が醸し出すには相応しい空気でございましょう。
 少女の恋人のアバン先生が、海を隔てた遥か遠方の地にいる間に、この背徳という名の甘い蜜をその肉感的な唇とともに啜ろうというのでしょうか。ああ、なんて天をも恐れぬリビドー。

「いや、アバン先生を遠くに追いやったのはレオナだし」
 いいえ、ただちょっと邪魔だっただけです。わたくしの刺激的な午後を彩るには。
「先生を小さい用事でロモスへ行かせてる間に、とヒュンケルにいま全く必要のない文献を探しに二人きりで行かせるだなんて、シュミ悪いよ。……あ! あの踏み台壊れてたのも知ってたんじゃないの?」
 全ては気まぐれな運命の女神が紡いだ、偶然という名の必然。
「もうそれはいいって」
「……あのねぇダイ君。別に私はスキャンダルを起こしたいわけじゃないのよ。ただ、書庫に二人で行かせたのも、そこの踏み台を古いものに替えておいたけど今みたく乗った途端に壊れちゃったのも、その拍子にヒュンケルがを押し倒しちゃってるのも、いつまで経っても離れないのも、ヒュンケルにとって目の上のたんこぶのアバン先生がロモスに居るのも、ぜーんぶ偶然の巡り合わせなの。それはたまたま見る事が出来た運命のミスシーフ。わたくしの退屈な日常を、ロマンスという名の薄桃色の風が吹き飛ばしてくれるのよ」
「レオナ……昨晩何か読んだでしょう?」
「恋愛小説を少々」
 活字などほとんど嗜まないダイでも知っている。レオナが読んだであろう「恋愛小説」は、文学的芸術作品というよりもひと時の楽しみを優先させる娯楽作品に近い読み物のはずだ。いわゆる「三文小説」。本を読むというだけでも凄いとは思うが、レオナの様子からも分かる下世話で赤裸々であろう描写は、ダイにはまだ楽しそうには思えなかった。
「ホラホラ、ダイ君! 見て御覧なさいよ! ようやく起き出したわよ! んもう、書庫のノブをあらかじめ壊しておいて正解だったわ〜。よーく見えるもの」
 偶然を必然へと導く運命の女神はここに居たのです。
「ちょっとダイ君ったら、私のお株を奪わないでよ! ……んっんっ。じゃあ、もういっちょやってみますか」
「覗きとナレーション、まだやるの?」
「実況ノベライズと言って頂戴」

 急ぐでもなく緩慢でもなく、身体を起こす二人。それは何もやましい事がない、ただの事故から起き上がろうとしているだけだと、さも言っているかのような計算し尽くされた動きに見えます。そうでなければ、今もお互いの視線を合わせないままでいるでしょうか? いまだに引かない頬の赤みは、離れても尚忘れられない、お互いの熱い身体の感触が脳裏に焦げ付いているからでしょう。刹那の身体の重なりは、涼風が頬を撫でた時、辺りの喧騒が一瞬止んだ時、月も隠れる宵闇に紛れた時、思い出されるのです。そして昂ぶる心と身体は治まる事を知らず、不義と分かっていながらも……
「ちょっ! これ以上はアウトォ!!」
「あ、ああ、ゴメンなさい。つい止まらなかったわ」
 見る者の身体も熱くさせる二人の空間。それはチョコレート・フォンデュに包まれた背徳の苺……。
「いや、意味分からないよ! 無理してソレやらなくていいよ!」

 彼らは何事もなかったかのように振る舞い続けます。奥底に潜めたインモラルの熱はいまだに燻るも、決して表に出していけない事を知っているのです。無理矢理作る笑顔が、まさに覆い隠さなくてはいけないものがあると暗に示しているのに。
 案の定、綺麗に片された少女の欲情を、飢えた銀狼は敏く嗅ぎ付けています。こちらもおくびに出さず少女との話を続けていますが、心の、いえ身体の奥底ではどす黒い欲望をナイフのように尖らせ、その切っ先を少女の柔肌に目がけて沈ませるのを今か今かと狙っているのです。ああ、何て恐ろしくも激しい欲望。顔だけは良い甲斐性ナシ男の胸の内には、こんな卑しい肉欲が蠢いているとは、黒ウサギの少女は気付きもしません。
「……レオナ、ヒュンケルに恨みでもあるの? ……ああ、あったか」
「こんなんで許してもらえるなら優しいもんでしょ」
 ヒュンケル。君はとんでもない国に、いや、とんでもないお姫様のいる国に手を出してしまっていたんだよ。ダイは木扉の向こうにいる仲間に、同情と共に一筋の涙を贈った。

「ちょ、ちょちょちょ! 急展開! 悔しいけど事実は小説より奇なり、よ!」
「うわ。本当だ」
 二人は書庫のドアのノブを外した穴を、再び顔を寄せあって覗き込んだ。

 小さな悲鳴と共に、少女の足が空に浮きました。
 ああ、何ということでしょう。銀髪の男は少女の大腿部に腕を回し、挟み込むようにして担ぎ上げているではありませんか。確かに、踏み台が無いのなら男の背を代わりに使っても、男の腰から膝までの高さまでしか上げられません。仕方のないこととはいえ、皆様にはあの男の顔を是非見せて差し上げたい。腕に乗せる少女の細いのに柔らかい太もも、すぐ近くにある円やかな双丘、何よりバルジベリージャムより甘い香りが鼻先を掠め、やに下がっただらしのない顔を晒すわけにもいかず強張らせている男の顔を、是非とも見て頂きたい。わたくしは右へ左へとよじれる腹を押さえるので精いっぱいです。
 苦し紛れに軽口を叩いているのか、少女に険しい顔をされていますが、それも男にとっては最高のスパイス。嫌がる少女を薔薇色の鎖で絡め取るという倒錯した光景を妄執し、その身を焦がしているのです。そして葡萄酒よりも濃く芳しいその業火は、知らず知らずのうちに少女までも酔わせる罪深くも美味なるボルドーの焔。ようやく届いた本を手に、男を見下ろした少女の動きは、時の歯車を止めたかのように途切れてしまいました。甲斐性ナシですが顔だけは良い男の美貌に、その黒ダイヤの瞳は囚われてしまったのです。甘美な罠のような傾国の美貌は、ついには鉄壁を誇る黒ウサギの堅城まで篭絡させてしまいました。
 うっとりとアネモネの花の赤を頬に散らし、少女の指は誘われるように男の髪に近付けます。少女の急な変容に臆したのでしょうか、男はその指先から逃れるように――身体は抱えたままなのですから離れられるわけがないのに――半歩退きました。追うばかりが宿命だった狼が、獲物から近付いて来られて戸惑ってしまったのでしょう。焦りとも見れるその表情は演技でも隠しきれるものでもない、男の素の顔だったのです。
 動揺に身辺の状況を忘失しているとは、よほど虚をつかれたのだと想像させます。引いた足の先には、先ほどの壊れた踏み台の木っ端が転がっているのにも気付いていないのですから! ああ、案の定、男は名うての戦士であろうにバランスを保つ事も出来ず、賑やかな音を立てて地に伏せてしまったのです! しかもあああああ、何という事でしょううう! 少女のしなやかな身体はまるで女豹の様に、男の身体にしなだれかかっているではありませんか! 計算されたかのような塩梅で少女の腰は狼の腰に密接し、幾千年分け隔てられた後に再び巡り会えたアレンとララァの物語のように、真っ直ぐに視線を絡めて顔を寄せています! 欠けたピースがはまる様にしっくりと重なり合った身体! そして……
「朱の鐘が少女の胸に響き渡る。漆黒の鳥は男の肩に止まる。眩い業の開花は梔子もかくたるや、げに抗い難きは咽かえるセレスタイトの芳香」

「あら、いいじゃないダイ君! 詩人ねぇ」
「いや、おれじゃないよ」
「え?」
 レオナとダイはすぐ側のお互いの瞳とぶつかった。そしてこんな時、向く方向は分かっている。示し合わせたかのようなタイミングで、二人はゆっくりと後ろを振り向いた。

「誉めて下さってありがとうございます、姫。いやーロモス王が風邪を召され療養されていたので、すぐに戻ってきたんですが……楽しそうな事をしていますねぇ。おやおや、本当に満更でもない様子じゃないですか。――ねぇ二人とも?」

 ドアの穴を覗きこむように寄せる顔は張り付いた笑顔。それがどんな憤怒の形相よりも恐ろしい。眼鏡の奥の瞳も見えない恐怖に、わたくしたちは急に現れた驚愕に声をあげることも叶わない。ただ息を呑む音だけが喉を通り、顔を引き攣らせてよろめく事しか出来ませんでした。ノブのない扉は後退した肩で少し押しただけで開いてしまいます。そして支えるもののないまま、わたくしとダイ君の二人は書庫に倒れこんだのです。
「きゃあ!」
「な、何だ!?」
 とヒュンケルは突然なだれ込んできた人影に驚愕していました。そして一つ一つの人影の正体を瞬時に確認していくと有り得ない人の顔を見つけたらしく、見るからにその目を丸々と見開いたのです。
「おやぁ?」
 何が「おや?」ですか、しらじらしい。書庫の床に転がりながらアバン先生を仰いで見ているわたくしたちは――ダイ君だってきっとそうよ!――そう思いました。だけど下から見てもまだ眼鏡の奥を窺えない恐怖に、口を開けようもありません。
「ア、アバン先生!? あ!! ち、違うのよ先生! これは……!」
「そ、そうだぞ、事故だ! 変な疑いをかけるなよ!」
「イヤですねー分かってますよー」
 うわ、超棒読み。口に出来るわけもありませんが、わたくしたちも倒れているのですが華麗に通り過ぎ、たちに歩み寄るアバン先生の背中をそう言いたげに見送りましたわ。
「とりあえず、立ち上がりましょうか。あまり良い光景ではないのでね」
 先生は柔和な笑みのままに手を差し出します。はそれを慌てて掴んで、ヒュンケルから身体を起こしました。
「ご、ごめんなさい! アバン先生!」
「いいんですよ、。事故だったのでしょう? ああ、ヒュンケルは良い思いをしたんだから自分で起きなさいね?」
「どこが、良い思いだ」
 聞かせるつもりではなかったのでしょうが、つい零れてしまったであろう呟きは、当然先生に敏く拾われてしまいました。バカめ。
「ほう。私のの身体を堪能しておいて良い思いではないと。随分と望みが高いのですね。だからいつまで経ってもカノジョが出来なくて顔だけの甲斐性ナシなんて言われるんですよ」
「んなッ!?」
「せ、せせ先生!? あ、あの、本当にヒュンケルは何も悪くないのよ!? む、むしろ私が驚かせちゃったから、あの……!」
「ああ、こんなに怯えて可哀想に。よっぽど怖い目にあったのですね」
 いや。あんたのその、奥底では笑ってない眼のせいだろう。以外の者は皆そう思ったはずです。ですがこれも口に出来るほどの、勇者を超える勇者は現れませんでした。横の現勇者は朝露に凍える仔猫のように震えています。
「あの、あの、レオナに頼まれたこの本を取ろうとしたんですけど、高い所にあって、でもどうにか二人で取ろうとしたんですが、そうこうしてる内にバランスを崩してしまって……!」
「ふむ、『スライムベスの明日〜彼らは王の名を冠せられるか〜』……ね?」
 流した視線の先にいたわたくしは、まるで身体中を隷属の槍で貫かれたよう。哀れなアゲハ蝶のように、羽ばたく事も叶わずその場に縫い留められてしまったのです。何て可哀想なエメラルドの蝶々。きっともう、蒼穹を泳ぐ事は出来ないんだわ。これから我が身に起きるであろう恐ろしい悪夢に、わたくしの可憐な魂はすでに凍て付いています。
 そして水色の悪魔は全て合点がいったというような顔を見せると、更に眩しいほどの笑顔をわたくしに降り注がせたのです。
「姫がそんなにも読書がお好きだったとは少々意外でした。まぁ読書も宜しいですが、どうでしょう。これからちょっと特別ハードコースでも?」

 お茶に行くような気軽さで言って欲しくありません。肯定以外を認めない支配力をもって言って欲しくありません。ボロ雑巾になるまでしごくつもりで言って欲しくありません。
 ああ、薄桃色の背徳の逢瀬を、紅茶とビスキュイを愉しみながら思い出す午後になるはずでしたのに。わたくしの退屈のままで良かった午後は、涙と汗で三年物のアンチョビのようにしょっぱいものになりましたわ。
 ですからこんな遊びはもうお仕舞いに致します。
 さようなら、ほんのスパイスがきいた穏やかな午後。こんにちは、涙色の筋肉痛。
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(2008.9.21)
可哀想なヒュンケルは我が家のデフォです。

リクエスト下さった方々、ありがとうございました!