「おや。偶然ですね、」
ガサガサと騒がしく振っていた袋を止め、呼ばれた方を振り返る。
「……アバン、先生?」
「どうも。――あれ、分かりませんか?」
私服だととっさには分からないものなのだろうかと、アバンは自分の格好を見直す。細めのポロシャツにベージュのパンツと、確認するように大きなアクションで触っていく。だがはそんなとぼけた様子もいつもの眼鏡からも、分からない訳がなかった。
「あはは、分かりますよ。先生こんにちは。いつものヨレヨレの白衣を着てないし、私服は結構シュッとしてらっしゃるしで、ちょっと一瞬目を疑っちゃっただけです」
「私、いつもそんなにだらしないですか?」
アバンは肩をすぼめてその残念さを分かりやすく表現する。そんな様子はいつもの白衣を着ていなくても同じだった。だけどやはり、学校の外で見ると「先生」も普通に生活をしている「人」なんだなと思い、まるでその人本来の時間に立ち会っているようで、はその特別さに何だか嬉しさを隠せない。
「ふふ、ラフって事です。アバン先生はお買い物ですか?」
右手に持つ紙袋を見て、は尋ねた。
「ええ、今日はお休みなので本屋を巡ってました。もお買い物ですか?」
当然返って来るだろう質問なのに、は慌てふためいた。まさかこのビニール袋の中が、おやつにと買った草団子と苺大福とたいやきと水ようかんの好物フルセットとは言えない。これが明日には全部腹の中に消えているとも言えない。いや、普段だったらもしかしたら言っていたかもしれない。だが今は、それがとても恥ずかしい事のように思えた。
「え、ええ。母のおつかいに。ほほほ」
慣れない嘘に、自分がビックリするほどわざとらしい。けれどアバンは「それはご苦労様です」と笑ってくれるだけなので、は胸を撫で下ろした。
突然の出会いに舞い上がっていたのだろうか。空の色が変わっていくのも、不穏な音がするのも、しばらく二人は気付いていなかった。気付いた時には辺りはみるみる真っ暗になり、地面の灰色のアスファルトに一段と濃い色の水玉が出来上がっていく。
「あ、雨!?」
「予報にはありませんでしたね……」
そう言っている間にも水玉はとうに消え、アスファルトの上で雨粒が跳ねて踊る。辺りを見渡しても、軒下にもぐれそうな店舗もない。マンションばかりで、しかもどこもオートロック仕様だ。完全に雨宿りできる屋根の下には入らせてもらえそうにない。
「弱りましたねぇ」
道の右と左、どちらに進んだ方が早く雨宿り出来る場所が見つかるか。アバンは地理を思い出しながら、買ったばかりの本が入った紙袋をポロシャツの中に避難させた。水に濡れた冷たさが直接肌に触れて細かに震えた。
は紙袋が滑り込む前に見えたアバンの肌に、思わず頬を紅潮させる。思ったよりも引き締まってたとか、先生のそんな部分見た事ないとか、私服であるのにも相まってまるで男の人がいるようだとか、の頭の中はグルグルと排水溝に流れていく雨水のように渦巻いていた。俯いた拍子に頭から頬へ伝ってきた雨粒が、やけに熱く感じた。正直、雨などもうどうでもいい。ビニール袋を握り締めて、不穏な動悸を鎮めようとするのが精いっぱいだ。
「何をやっているんだ、二人とも」
背後から聞こえてきた声へ一斉に振り向く。
計ったようにそこに居たのは、ピンチの時に現れる、まさかのというかやっぱりな、彼だった。
「いや〜助かりました。ヒュンケル」
暢気な声を背にして、ヒュンケルは玄関扉の鍵を開ける。
予報には出ていなかったが、今日は嫌な予感がして折り畳み傘を持って出かけたのだ。すると予感は当たり、あっという間に土砂降りとなった。久しぶり……否、初めて「ツイてる」と感じた彼は、ほくそ笑むのを隠せないまま誇らしげに傘を広げた。街中は蜂の巣を突付いたように、人々が雨を避けようと駆け回っている。否応なく感じる優越感と勝利感。ヒュンケルは短いが、帰路を笑顔で辿った。
もう少しで家に着く、というところだった。自分の住んでるマンションの前で、濡れ鼠と化したよく見知った顔を二つ見つけた。
天は彼を嘲笑うかのように、より激しく雨を降らせた。
「ヒュンケル先生。スミマセン、ご迷惑をおかけして……」
「構わん」
雨に濡れてしょげかえった仔犬のように見つめてくる元・教え子を、助けてあげられたのは良かったと思う。だがもう一人の男は、別段放っておいても死ぬようなやわで可愛いもんじゃない。むしろそんな事があるなら見てやりたいほどだ。一人だけだったら無視しても構わなかったのだが、この少女の目がある。仕方なく、嫌々、不本意ながら、ヒュンケルはアバンも部屋まで通した。
ヒュンケルは玄関を上がると、足早に廊下の途中にあるのであろう脱衣所に入っていく。玄関で雨露を滴らせながら、二人は大人しく待っている。そしてバタバタと脱衣所から出てきた。
「君はこれを使いなさい」
一枚のバスタオルをに手渡した。その横でアバンは濡れた手をブラブラと振っている。
「ヒュンケル〜私のは〜?」
「あんたは待ってろ!」
に見せるものとはまるで違う険しい顔を向けて怒鳴った。そしてまた慌ただしく部屋の奥のほうへ駆けていき、ブツブツと文句が聞こえてくる。
「男の一人暮らしなんだ、そんなに予備を置いてるわけあるか! 探してくるから大人しく待ってろ! そこら辺、濡らすなよ!」
奥の方でクローゼットやら扉やらを開いては探している音がする。言葉は悪いが、早く探そうとしてくれているのがよく分かった。
「あ、あの、アバン先生。これ先に使って下さい」
は借りたグレーのバスタオルをアバンに差し出した。アバンは目を丸くしたが、すぐに笑いながら手で制した。
「いいんですよ。私のはヒュンケルが今探してくれているし、後で貸してくれます。そんなに差はないんですし」
「でも……」
「遠慮なく使わせて貰いなさい。貴女に風邪をひかせてしまっては、私がまたヒュンケルに怒られてしまう」
そう言って快活に笑った。気を遣わせまいとしたのはもちろんだったが、そろりと覗かせる本音は「早くタオルを被って欲しい」だった。
雨で濡れたの白いブラウスは、肌に張り付いてその薄い色を浮き上がらせている。キャミソール、とかいうやつも着ているようだが、それだってブラウスから雨が滲みこんで濡れてしまっているようだ。人二人が横に並べば埋まってしまうくらいの広さの玄関だ。必然的にすぐ側に居るようになってしまう。そんな姿で真下から見上げてこられてみろ、目のやり場に困る。アバンはヒュンケルの尻を叩いて急かしたくなった。それくらい、アバンの心臓は忙しく脈打っていたのだ。
「……はい。じゃあ遠慮なく」
すぐにタオルを持って来てくれるだろうと思ったし、これ以上押し付けても迷惑になってしまうと思ったは、言う通りタオルを広げる。
するとふわりとサンダルウッドの香りが鼻先をくすぐった。この部屋の主と同じ香りだ。
「……このタオル、ヒュンケル先生の香りがする。なんか恥ずかしいな」
本当に恥ずかしそうに、頬を色付かせてタオルに顔を埋めようとした。
その表情を見た時、思わず手が動いていた。
「あ」
するりと掠め取ったタオルでアバンは乱暴に髪を拭く。そして隣で呆然と見上げるの頭に、ずれた眼鏡を直しながらタオルを被せた。
「少し濡れてしまったけど、これでヒュンケルの匂いは消えたでしょう?」
タオルの端から覗いたアバンは驚くほど笑顔で、は呆気に取られてしまった。悪びれもなく、ただ嬉しそうに目を細めて悪戯っぽく笑うのを見て、好物たちよりも甘い喜びが胸の内に広がる。は被せられたタオルを顔を包むようにして引き寄せ、鼻先を埋めた。
「ふふ、アバン先生の香りがする……」
タオルのすき間からそこだけ露わになっているの目元も、嬉しそうに細められた。誘われるようにアバンの指先が、の濡れた黒髪に触れようとした時だった。
柔らかなのに乱暴な音が頭上から聞こえた。アバンにいたっては顔面から聞こえた。
目を丸くして見ると、アバンの顔にタオルが叩きつけられている。乱暴な足音に振り返れば、ヒュンケルが右手を振り下ろしたままの形で床を踏み抜くように歩いてくる。眉は平常よりも吊り上がっていた。
「風邪をひく。君は早く拭きなさい」
そう言っての頭に被っていたタオルを、完全に顔が隠れるようにしてしまった。ヒュンケルはが見えてない隙に、アバンに一睨み寄越す。その目は口にしないまでもこう言っていた。
『あんた、自分の立場を分かってんだろうな』
アバンは叩き付けられたタオルを顔から毟り取ると、同じように視線で返してやった。
『分かってますよ。バレないようにします』
ヒュンケルの目尻が小さくヒクつく。そして笑ってはいるがその奥に覗かせる熱情の色を隠しきれてないのを見て、自分が何を言っても戻ってきそうにない事を早々に悟り、深い溜め息を吐いた。
がもそもそとタオルをずらして顔を出した時には、すでに二人はいつもの顔だった。
がお礼にと広げたおやつフルセットで、乾燥機にかけた服が乾くまで三人はアフタヌーンティーを楽しんだ。
「は甘いものが好きなんですね」とアバンに言われた。母のお使いなどではない事はとうにバレていたようで、は真っ赤な顔で笑いながらタイヤキにかぶりつく。
まだ少し温かかったタイヤキが美味しかった。
(2008.9.2)
ヒュンケル、カワイソス(´ω`;
リクエスト下さった方々、ありがとうございました!