黒は夢
ぞろり
”それ”は蠢く。
耳が痛いほどの漆黒の闇の中で、確かに、そこにいる。
頭をもたげ、醜い形の穴が歪む。
――痴れ者め
いまだ形が定まらずに蠢く穴は、口だったのか。
発せられた場所と同じぐらい耳を覆いたくなるような醜い音を、すぐ耳元で捉える。
”それ”とはいくらかの距離があるはずなのに。
今すぐ耳を切り落として洗ってしまいたい衝動に駆られるほどのその音の不快さに、全身が粟立つのを覚えた。
――忘れたのか
目が合った。
どこにあるか分からないが、全身を重く絡め取る様な粘着質の、だが確実に冷たさを伴った視線を受けたと分かり、息を呑んだ。
――その身に受けし忌まわしき呪いを
その言葉にも身体を再び硬直させた。
何故、知っている……。
知らいでか、と言いたげに、”それ”は口と思しき穴を歪ませる。
笑っているのか。
――呪われし吾子よ
思い出すがいい
お前の近しき者を貶める禍々しき呪いの詩を
潜めていた記憶を揺り動かす。
甘い、甘い、綿菓子に包まれ覆い隠されていた記憶が、濁流が押し寄せた後のようにいとも簡単に剥き出しにされた。
耐え切れぬその不快さに吐き気を催す。強く奥歯を噛み締めやり過ごすが、喉の奥が酸に焼ける。
――それでも欲するか
然れば、手を伸ばせ
お前の欲するは玩具は其処だ
すぐ手の届く処に
吾子よ
さぁ、手を伸ばせ
掴めば幻
砂塵が指の間からすり抜けるような儚さに、呪いの恐ろしさを知れ
漆黒の中に双眸が鈍く、冷たく、光る。
――否、お前は知っている
知っていて
分かっていて
然れど、壊したくて
お前はその娘を傍に置くのだ
自分は”それ”の正体を知っている。
あの眼は
私だ
「…………せぇ! 先生……アバン先生……!」
突如覚醒する意識で捉えたのは、自分を心底心配そうに覗き込む愛しい人。
ぼんやりと薄暗い部屋が視界に飛び込む。
アバンは全身に嫌な汗が伝う不快感よりも、夢から逃れられたのだという安堵感に縋るように浸った。
途端、胸を上下させ呼吸を荒げた。嫌な動悸が治まらない。
「先生、大丈夫? 凄い汗……」
額をなぞる小さく少しひんやりした手の感触と、囁くような優しい声色が、アバンを落ち着かせる。
周囲を小さく見渡す。
一糸纏わぬ姿のが居るという事に、此処は宿だったと思い出す。
「いま……」
何時だと、聞こうとして出した声のひどく掠れていたこと。その醜い音は先程の夢の主を彷彿とさせ、えも言われぬ恐怖を再び覚えた。
「夜明けまであと少し。先生、酷く唸されていたから起こしました。……怖い夢をみたのね?」
欲しかった答えを整然と、でも依然穏やかな口調でくれるに、恐怖で黒く塗り潰されそうになった心を救われた気がした。
「、…………ッ!」
恥も外聞もなく、アバンは縋り付く様にの胸に顔を埋めた。
胸の中で細かく震えるアバンに驚きはしたが、幼子のようにしがみ付かれると幼いながらも母性本能が働いた。は気を落ち着かせるように何度も何度も、髪を撫でてやる。
「大丈夫。ずっとこうしてますから、安心しておやすみなさい」
髪に唇を埋めるように語りかける。皮膚越しに伝わるアバンの鼓動の速さに、見た夢は余程恐ろしかったのだろうとは思った。少しでも落ち着くようにと、自分の心臓の拍動に合わせてとん、とん、と背中を拍き続ける。
幼い頃、怖い夢を見て泣いて起きた夜。母にしてもらったように、その頃を思い出しながら拍き続けた。
しばらくすると規則正しく肩が上下し、微かな寝息が聞こえはじめた。
はそれに薄く笑うと、背中を拍くリズムを段々と弱めていく。そして手の動きを止めると、部屋は夜明けの白い明るさが射し込まれる頃になっていた。
は止めた手の乗る背中を見つめる。
自分の腕でやっと回しきれるほどの大きな背中。
いつも目の前にある、広くて、自分を守ってくれる、大きな背中。
そんな背中でも支えきれない、大きくて重いものがアバンには圧し掛かっているんじゃないのか。
普段は何でもないような顔をしているが、いつも懸命に押さえ込んでいただけで内では何かが奔流のように渦巻いているんじゃないのか。
その何かの正体を、きっとアバンは話さない。
次に目覚めた時にはもう、奥底に綺麗に片している。
其処に踏み込むまでの術を知らない幼い自分に痛烈な不甲斐無さを感じて、はこめかみに痛さを覚えるほどギュッと目を瞑る。
そしてそろそろと開ける。
今は、ただ、おやすみなさい。
自分に出来るのはこうして眠らせてあげる事だけ。
少しでも安らかな夢を見れますように。
そんな祈りにも近い想いを込めて、は小さく子守唄を唄った。
(2006.11.10)
先生って何かの強迫観念に襲われてそうだなぁ、と。