無情なチャイム

 キンコーンカーンコーン

 授業終了のチャイムが鳴る。
 大半の生徒はこの音を待ちわび、終了間際は教鞭も耳に入らずに心の中でカウントダウンを取っているはず。居眠りしながらこの音を聞く者も少なくないだろう。普遍的に繰り返される風景。それは学校内のどこでも見られるものだった。

 だが学校内でもこのクラスだけは違った。
 もう少し詳しく言えば、このクラスの女子は違った。
 眠気に襲われている者など一人も居らず、その目は爛々と開かれている。そして気を許せば緩んでしまうその頬を懸命に強張らせていた。だがその開かれた目は勉学に勤しむ類のものではない、他の熱が込められていた。その熱い視線は黒板に走らせた無骨な白い文字を追うでもなく、今まさに教室の中央の教壇に立つ教師へと注がれていた。
「……ああ、鳴ってしまったな。じゃあ今日はここまで」
 終了のチャイムが鳴ってようやく授業時間があることを思い出すほど、彼は教鞭を振るうことに静かに熱中していた。教科書から目を外し、教室の中心に掛けられた大きな時計にその切れ長の目を向ける。その一つ一つの所作までが、女子生徒にはため息がこぼれるほどの魅力であったが本人は一切気付いていない。
 パタンという教科書を閉じた音と終了を知らせるその言葉を皮切りに、女子生徒は派手な音を鳴らすのも気に留めず、席を立って教壇へと一目散に駆け寄る。

「ヒュンケル先生! 授業の中で分からなかった所があるので放課後教えてください!」
「先生! 私も!」
「ヒュンケル先生〜!」

 教育実習生のヒュンケル。
 彼がこのクラスにやって来てから一週間。毎回授業終了と共に見られるようになったこの風景を、男子生徒はげんなりと見つめている。
 女子の視線を一手に担ってしまうその容姿は認めざるを得ないが、男子から見れば気障で、すかした態度に取れてしまうその教育実習生に、いい思いはしていなかった。だがその不満を口にする隙さえ与えてくれないその雰囲気に只者ではないと思わせ、男子達は無言でその状況を見つめるしか術はなかったのだった。
 そして教室に黄色い声が響き渡る中、その輪に参加しない女子生徒が一人いた。
 窓際でクラスメイトのポップと、カッターで鉛筆をどれだけキレイに削れるか競争を繰り広げている少女、

 女子生徒に囲まれながら教室をあとにしようとするヒュンケルは、その少女から目が離せなかった。



 放課後。

 ヒュンケルはもはや恒例となってしまった補習を行う為、一階の視聴覚教室へと向かっていた。
 その気持ちは表に出さないまでも、重かった。歩みも、気持ちその速度を落としていた。
 ほとんどの生徒が下校した後の放課後の廊下はひっそりとしていて、自分のサンダルが出す音がやけに耳に障る。

 玄関のところまで来ると運動場から部活に励む野球部員の掛け声が聞こえてくる。その声をボンヤリと聞き入り、つい足を止めてしまう。

 音楽室から聞こえてくる吹奏楽部の奏でる楽器の音色。
 運動部員の掛け声や金属バットの出す軽い音。
 たまに聞こえるパタパタと廊下を駆ける音と笑い声……。

 どれも郷愁的で、その微かに聞こえる一つ一つがとても愛しく思える。学校という所はいつ来ても不思議な場所だ。

 急がなくてはいけないはずなのに、しばらく耳を傾けてしまう。

 ガシャン

 音のした方を驚愕と共に振り返ると、玄関ホールにあるジュースの自動販売機から今買ったと思われる紙パックを取り出している女子生徒がいた。
ジュースを手に顔を上げ、その大きな目をぱちくりとさせる。

「あ、ヒュンケル先生」

……」
「あは。名前覚えててくれたんだ」
 屈託のない愛らしい笑顔を見せる。ヒュンケルはその笑顔に言い知れぬ甘い痺れを胸に感じた。
「君は……他の子と少し違うように感じるから」
「えー? そうですか?」
 は怒りはしないが、意外だという顔をした。
「補習に一回も来た事ないだろう?」

 補習に向かうのに気が重かった原因の一つはこれだった。
 気になる彼女だけが来てくれない。
 限りある回数の中で、話が出来なくても少しでもを見ていたかった。初日に見せてくれた満開の華のような笑顔が見たくて、逢いたくて、仕方がなかったのに。
 毎日のクラスに行くのが楽しみになっていた。入り口のドアの前で一呼吸置かないと緩む頬を元に戻せなくなっていた。の声が聞きたくて教科書の朗読に当てた事もあるけど、彼女を呼ぶ声が上ずりそうなほどの緊張と、美しく澄んだ声を聞けてその後何を話したか覚えてないほど有頂天になってしまった事で、それ以降を当てる事はしなくなっていた。

 こんなに思っていてもこの一週間、彼女は一回も補習に顔を出さなかった。毎回、視聴覚教室の扉を開けるたびに打ちのめされた。嫌われてるのだろうか……、そう考えた事もある。しかし、毎朝廊下ですれ違うと、あのまぶしい笑顔と可愛らしい声で挨拶をしてくれるのだから、まさかそこまでは……ヒュンケルはすがる様な思いでその最悪の状況を振り払う。だが振り払っても、他の女子生徒は全員来る中、ただ一人補習に来ない理由がわからなかった。
 そんなヒュンケルの気持ちもいざ知らず、は飄々と笑顔で話す。
「だって先生の授業、補習なんて必要ないぐらい、とてもわかりやすかったもの」
 愛想の良いほうではないし、人前で笑うことも珍しい。
 だがこの時自然と、喜んで笑う、ということがヒュンケルは出来た。
「そ、そうか……? みんな毎回補習を受けに来るものだから、解りづらいのかと思ってたんだ……」
 歩みを重くする原因の最後の一つは、自分なりに一生懸命授業をしているのだが、補習をしないといけないほど伝えられない教師としての未熟さを感じての事だった。
 そして弾ける様な笑みを見せる。
「あはは。別に先生の授業が悪いからじゃないわ。みんな先生のファンなのよ。だから押しかけてるの」
 は話しながら財布から小銭を取り出し、自動販売機に吸い込ませていく。フラフラと眩しいディスプレイにその白くて細い指を彷徨わせると、狙いを定めてイチゴ牛乳のボタンを押す。
 当然のように話すにヒュンケルは驚きを隠せなかった。悪い方向ばかり考えていた自分の肩の力が抜けた気がした。
「理由は何でも良いから少しでも先生と一緒にいたいのよ。大変だろうけど短い間だけだから、みんなに付き合ってあげてください。じゃあ私、部活があるんで!」
 そう言ってはイチゴ牛乳を手渡して、ヒュンケルが我に返る前に軽やかに去って行った。


「短い間……か……」

 その間にこのイチゴ牛乳のお礼と、部活は何に入っているのかを聞かないといけない。
 あと彼氏とかいるのか……を。

 ヒュンケル先生の実習課題はまた一つ増えた。
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(2006.5.13)