黒板とチョーク
私達のクラスでは日直は、毎日出席番号順に一人ずつ回るようになっている。
その仕事内容は、学級日誌の記入、教室移動の際の鍵の開け閉め、そして授業の後の黒板の清掃。
今日、日直に当たっている私は今まさに、目の前の黒板をピカピカに磨き上げんばかりの気概で黒板消しを右手に握っている。
正しくは、黒板の前で中空に掲げた黒板消しを振るう事が出来ずに立ち尽くしていた。
黒板とチョーク
目の前に広がるのは古代中国での黄河文明成立までを追った板書。難しい漢字の王様や赤のチョークで書かれている「治水」の文字。流れる、というよりは一文字一文字しっかり綴り上げていかれたそれらの文字は、多くの生徒達からすれば眠りを誘うようなものかもしれないけれど、私の目にはどの白い文字たちも口を開けて見惚れてしまうほど、私の心を掴んでは離さない魅力的なものだった。
この文字たちの主人は、2時間目に私達のクラスに来て世界史の教鞭を執っていた、担任のアバン先生その人。
私の……恋人だ。
世界史のある日に日直に当たったのは、今日が初めてだった。
だから、アバン先生の黒板の文字をこんな近くで見たのもこれが初めてだったのだ。
この近さまで来ると、筆使いならぬチョーク使いがよく分かる。角に力を溜めるのが特徴的でよく見ればチョークが他よりも厚く置かれている。はらいは長くもなく短くもなく。あ、末尾の文字だけはらいが長いかな。ほら、この「の」っていう字、特徴的。うふふ。
先生の残した軌跡が自身の温度を感じさせて、私は何だか先生が目の前にいるように錯覚していた。愛しい人を前にするように、私は黒板の文字をただ熱く見つめる。
消したくないな。
黒板ごと持って帰りたいな。
あ、写メ撮ろうかな。
そんな事を本気でぼんやりと考えていた時だった。
「どうしたんですか、。黒板に向かってにらめっこして」
「きゃあ!!」
身体が飛び跳ねたのが分かる。ついでに心臓も。
私を甘い妄想の海から現実に引き戻したのは他の誰でもない、アバン先生の声だった。
横を振り向けば、私の声に驚いたのか、先生も身体を半歩退いて強張らせ、目をまん丸とさせていた。
「あービックリした!」
「私の方こそビックリしましたよ。忘れ物を取りに教室に戻ってみたら、一人で黒板と対峙してる貴女がいて、声をかけたらこんなに驚かれてしまったんですから」
「え? 一人?」
そんなバカなと思いながら私は振り返り、教卓を挟んで教室を見渡した。
ホントに……誰もいない……
次の瞬間、さぁっと身体中の温度が下がった気がした。
そうだ、次は生物の時間。教室ではなく理科室での授業の予定なのだ。
私がぼんやりと黒板消しを持って黒板の前に立ち尽くす異様な姿を晒していても、みんな教室移動で慌ただしく、そんな私の様子などに気にも留めなかったんだろう。だから結果、誰にもツッコミを入れられる事なくいつまでも黒板に見惚れてしまっていたのだった。
この黒板を綺麗にして、自分も早く物理室に向かわなくてはいけない。なにせ生物の先生はあのザボエラ先生の息子のザムザ先生なんだから。遅れようものなら、親子共々耳につくあの笑い声で蔑まされるに決まっているのだ。それはなんとしても避けたい。
恥ずかしさと焦りから、下がった体温が急激に上昇していくのを感じた。
「、様子がおかしいですよ。具合でも悪いとか?」
心配そうに顔を覗き込むアバン先生は、教師としてというよりも恋人として心配してくれているのが、私にはよく分かった。途端に全身が甘い喜びに包まれ、黒板消しを握る指先がジリジリと痺れだす。
「いえ、な、何でもありません!」
「本当に?」
そう言いながら先生は、今まで私が見つめていた黒板を見上げる。
「私が書いたヤツですね。何か間違いでもありましたかね?」
「とっ、とんでもないです! ……ただ、その…………消すのが惜しくて……」
「黒板の字が?」
きょとんという音が聞こえた気がする。それぐらい先生の顔は呆けていた。自分独りが浮かれているのが恥ずかしく、そんな先生の表情を見ているのが居た堪れなくて、私は視線を外しながら言った。
「だって、アバン先生が……書いたものだもん……」
教室が耳に痛いほどの沈黙に包まれた。
きっと数秒の事なんだろうけど、その無言の間は私を絶望の淵にまで追いやっていた。あとほんの少し長ければその深淵に身を投じていたに違いない。
そうならなかったのは、鼻先を掠める資料室の香りを感じ取った刹那、柔らかな感触が唇に降ってきたからだった。
「……!」
短い短い、ほんの瞬間の出来事だったが、私達は教室でキスをした。
学校で、ましてや教室で及ぶなどリスキーにも程がある。先生の肌をこの場所で感じる事は出来ないとかねてより思っていたので、私は大いに驚いた。そして思わず誰も見ていないか周囲を見渡してしまう。廊下、窓から見える屋上、他の教室。良かった、誰も居ないみたい。
「せ、先生ッ!」
咎めるように見上げてみても、きっと私はポストみたいに真っ赤な顔で何の威力もなかっただろう。
「可愛くて、つい」
そう言って悪戯っぽく、でも満足そうに微笑むアバン先生を見れば、危険な刹那の逢瀬をこれ以上咎める気など吹き飛んでしまい、先ほどの口付けと相まって愛しさが溢れてきた。ぎゅうっと胸の奥が喘いだ気がする。
「こんなものにまで私を感じてくれているのですね。嬉しいですよ、」
目を細めて微笑むアバン先生に、私は触れて欲しくて仕方なくなっていた。
もう一度のキスなんて言わない。
髪や頬を撫でるだけでも欲しかった。
指一本でも絡めたかった。
でも、出来ない。
少しでも触れてしまえば止まらなくなってしまうのは分かっていたから。
先生の切ない瞳を見れば、私と同じ気持ちである事を容易に感じ取れた。苦しそうに、でも愛しさを込めた瞳を交わらせる事しか出来ない今を、私は憎々しげに恨んだ。
「今度の土曜、家に来れますか?」
「ええ……」
「本当は今すぐ貴女を愛してしまいたいのに、実に悔しい。土曜までも我慢できるか心配だ」
フフッ、と無理矢理口角を上げてアバン先生は笑う。だが得意のおどけも少ししか出来なかったようで、次の瞬間には再び熱の篭った瞳で私を見つめてくる。
「そのかわり会えたら……きっと離せない」
ああ。
私はこの人が好き。
全身がそう叫んだ。
制服が汚れてしまう事も厭わず、私は黒板消しを持つ手を含めた二本の腕で、己の身体をきつく抱き締めた。
先生は口元に拳を当て、大げさに一つ咳払いをした。そして一呼吸のあと、顔を上げた。 あ、これは教師の顔。
「さぁ次の授業に間に合わなくなってしまう。急ぎましょう!」
先生の言葉は私達の目を覚まさせ、切り替えるスイッチの役割を十分に担った。今、私達がしなくてはいけないのは、教師として、生徒として、次の授業に間に合う事。
「そうですよね! ああ、もうこんな時間!」
私は大げさに大きな声を出し、黒板に向き直ってずっと持っていた黒板消しを頭の上にまで掲げた。
が。
黒板に下ろそうとした黒板消しが、情けない事にまた中空で留まってしまった。一度止まった腕はなかなか動かず、ピクリともしない。急がなくてはいけないのに、私は自分の身体の叛乱が分からず、無表情なまま困り果てていた。
ふと、横に白い煙が舞った。
首を横に回すと、先生はもう一つあった黒板消しを構わず大きく黒板上に走らせていた。呆然とする私を見る事なく、黒板に顔を向けたまま躊躇なくチョークの文字を消していく。
「……こんなチョークの字を追わなくてもいいんです」
依然、視線は黒板へとだけ向けられている。
「私の軌跡よりも私自身を追って下さい。いくらでも私の気持ちを貴女に記してあげるから」
思わず口を開きっぱなしにしてしまった。
アバン先生は頬を少し紅潮させ、むきになって消しているようにも見える。
もしかして……黒板の文字に嫉妬してる?
そうは言わなかったけど、私は隠し切れない笑みのまま「ハイ」と返事をし、先生に倣って勢いよく黒板を拭き取り始めた。
先生は忘れていた出席簿を手にし、私は生物の教科書を手に教室に鍵をかけた。そして教室前で忙しく私達は別れたが、寂しい気持ちはない。
理科室に向かう道すがら、私は自分の手を見つめた。
私達のこの手は絡める事も叶わない手だけども、その指先には同じチョークの粉を纏っている。密やかな繋がりと先生の横顔を胸に、私はその手を大事に大事に握りしめた。
(2007.10.15)