日直日誌


「どうしよう……」

 は机に突っ伏し、目の前の薄いグレーのノートに顔を寄せる。
 羅列された文字を無機質に眺め、数時間前に書いた天気欄のお日様マークを無駄に装飾していく。

 目の前に広げられているのは日直日誌。すでに記入すべきところはほとんど埋まっている。のペンを止めているのは、ページの最後、「備考欄」だった。

 野球部の大会の進み具合の報告。
 学校への不満など日々の思うこと。
 自慢のカレーのレシピ。
 自作の詩……。
 このクラスの日直日誌にはいつの間にか、備考欄に自分の好きな事を書く事が恒例となっていた。どんな内容でも担任のアバンは親切丁寧に一人一人にコメントを残す。そのコメントを楽しみにして、思い思いの「備考」を書き綴る。クラスの皆は、日直となったその日は授業もそっちのけで、その備考欄に何を書くかを一日かけて考える。
 ただ面倒なだけだった日直が、回ってくるのを楽しみになっていたのは、アバンの教師としての手腕がさすがと言ったところか。

 そして今日の日直はだった。

「う〜ん……う〜ん……」
 一日考えても思い浮かばない。
 数日前から考えていたのに、気の利いた文章のひとつも紡ぎ出せなかった。そのもどかしさに呻き声しか出ない。
 他の先生にならこんなに悩む事はなかった。

 何故なら他ならぬアバンに寄せるものだから。

 生徒として以上の気持ちを抱きつつあったには、この日直日誌で他の子とは違うところをアピールする絶好のチャンスだった。だがそれを思えば思うほど気負いとなって、依然、ブルーのシャーペンは走る事がなかった。

 何を書けば、先生の関心を得られる?
 何を書けば、私の事を好きになってくれる?
 何を書けば……

 そんな一撃必殺の言葉が出てこない自分の語彙の無さに、情けなくなる。
 ああ、もっと本を読んでおけばよかった。どうせ読むなら恋愛小説とか……そうでなくても少女マンガとか……。ジャンプばかり読んで友情・努力・勝利しか覚えられなかった自分を今更ながら恨めしく思う。

 ガラガラ

 一人きりだった教室に扉を開ける音が響く。
「ああ、やっぱりここでしたか」
「ア、アバン先生!?」
  教室の前のドアから、いつものくたくたの白衣を纏ったアバンが現れた。
 は思わず飛び上がりそうなほど驚き、その体温は急激に上昇する。
「この時間まで待っても来ないので、心配になって探しに来ちゃいました」
 そのアバンの言葉には窓の外の暗さと教室の真ん中に掛かっている時計の指す時間に驚いた。窓の外は日が落ち、すでに夕闇が迫っている。時刻は部活も解散して帰り支度を済ませ、下校しようとしているほどであった。
「も、もうこんな時間……!? ごめんなさい、先生! いつまで経っても帰れなかったですよね……!」
 先生のことを考えていて、先生に迷惑をかけてしまうなんて。
 自分は何してるんだろう、とは情けなさと恥ずかしさと申し訳なさ、いろんなものが一瞬で頭をよぎり、思わず目頭が熱くなる。
「ああ、いいんですよ。プリント作ってましたから。それに日誌というより貴女を待……、あ、いえ……」
 ゲホンゲホンとから見れば不思議な咳払いをしながら、アバンは少し頬を赤らめつつの座る席へと近づいて来た。は熱くなった目頭よりも近づいて来るアバンの方が気になり、今度は頬の紅潮を気にしないといけなくなった。
 アバンはが座る席の前の椅子を引くとあっという間に腰掛けた。思わぬ接近には跳ねる心臓に体を揺さぶられそうになっていた。
 いつもの優しい視線がすぐ目の前に。
 は思わずその視線をノートへと落とす。
( ああどうしようきっと私今唇カサカサだよそれにあぶらとり紙使いたいよ恥ずかしいちゃんとみんなみたくお化粧した方がよかったのかなのどがカラカラだポケットに入ってるフリスク舐めたいよこんなことなら準備万端にしておけばよかったコンチクショウ)
 そんなことを0.1秒で考えてるには気付かず、アバンは机の上に広げているノートに目を落とす。
「ああ、備考欄ですか。難しく考えることないんですよ、ここは必ず書かないといけない場所ではないですし。何でも好きな事を書いてください」
「はぁ……」
 その好きな事が書けなくてこうして何時間も、いや一日中悩んでいるのだ。気のない返事にアバンはが本気で悩んでいる事に気付く。
「ふむ……じゃあ質問でもどうぞ。私に答えられる事でしたら何でも聞いてください」
「質問……?」
「はい、質問」
 は落としていた顔を上げると、ニコリと笑っているアバンと目が合う。
「何でもいいんですか……?」
「ええ、何でも」
 は人差し指をあごに当て、しばらく考えをめぐらす。
 そして目に見えて分かるようにパッと顔色を明るくすると、ブルーのシャーペンを握る。
「はい、質問にします! あ、今書きますからまだ見ちゃダメですよ!」
 はそう言うとノートを後ろの席の机に移し、腰をひねってアバンに見えないように書き込んでいく。
 コロコロと変わる表情にアバンは驚きながらもクスリと笑ってしまう。そして一生懸命な背中を後ろから見守る。

「出来ました! こんな時間になってしまってごめんなさい! じゃあこれ、日誌です!」
 は急に立ち上がり、その薄いグレーのノートを差し出す。
 アバンは急な事に驚きながらも受け取る。だが渡された日直日誌には消しゴムが添えられていた。 「忘れ物ですよ」そう言おうと顔を上げた時には既にはかばんを引っ掴み、教室のドアへと向かっていた。
「それじゃあ先生、さようなら!」
 声を掛ける間もなくは教室から姿を消した。

 まるで嵐が去った後のように静寂に包まれた教室に一人残されたアバン。
 我に返って日直日誌の今日のページを開いてみる。





備考欄
   先生の隣、空いてますか?
 
 
 
(U・x・U)@domoco.ne.jp






 思わず周りを見渡してしまう。
 そしてもう一度、手の中の日誌を見直す。

 頬の緩みを隠せないままアバンは、ズボンのポケットに入れてあった携帯を取り出す。





5/23 19:10
Sub:はい
空いてますよ。座ってくれますか?


>送信


  そしての意図を汲み取ったアバンは添えてあった消しゴムで、日誌に少し手を加えた。

 アバンは日誌を書き終わると教室の窓から校庭をのぞいた。するとらしき人影が校門の辺りで立ち止まっていた。愛しい人の顔がどんなに赤く染め上がっているか、容易に想像できる。
 ふとアバンのいる教室の方へ顔を向けるのが分かった。
暗くなり始めた学校では、照明が灯っている部屋は遠くからでも中がよく見える。アバンはに向かって笑顔と共に手を振る。それに気付いたは千切れんばかりにその腕を振って応えた。そしてペコリと直角に近い角度までお辞儀をし、駆けて行った。


 思わぬキューピットになった薄いグレーのノートに、アバンは薄く口付けた。
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(2006.5.22)