先生が遅刻
安ライターに火を走らせると、喉に通る重量を伴った煙が全身に巡っていくのを感じる。
俺は深く呼吸を吐き出すと、軽く頭を左右に動かして首廻りの気だるさを取り払う。そしてまた煙草に口を付け一つ吸い込むと、冷たい指先にまで重い紫色の煙を巡らせた。
ああ、息を吹き返すようだ。
これが俺の毎朝の日課だ。
美術教師である俺のテリトリー、4階の美術準備室に着くや否や、俺はとりあえず一服する。
これからこの校舎は小雀達の耳に劈く鳴き声でいっぱいになる。それに応戦する気概を奮い立たせる為にも必要なカンフル剤だったし、何よりこうしてゆっくり紫煙を燻らせる事が出来るのは今の時間ぐらいだ。
俺は洒落っ気を一切無視した灰色の教員机にあるガラスの灰皿へ灰を落すと、これまた事務的な椅子に乱暴に腰を下ろし、スケジュール帳を開いて今日の予定を確認しようとした。
その時だ。
俺の貴重な朝の時間を脅かす足音が近付いてくるのを感じた。
「いっけね! 私ってばウッカリさん!」
乱暴に扉を開けてこの美術準備室に入ってきたのは、俺の予想通り、美術部員のだった。あの軽い足音はもう聞き慣れた。
若い事に4階まで階段を駆けて上ってきたんだろう。顔を真っ赤にして息を切らせつつも身体のテンションそのままに大声でまくし立てる。
「あっれー? ロン・ベルク先生もういらしてたんですか? 早いですねー。おはようございまーす!」
ああ、クソッ。俺の平穏な朝の時間は脆くも崩れ去った。
……イヤ、まだだ。すぐ追い出せばいい事だ。
「……おはよう」
「ああ! あった! やっぱりここだった〜!」
俺の渾身の爽やかな挨拶をスルーして、はこの美術準備室に設置してあるソファセットに駆け寄りソファの上にあったノートを手に取った。
「ノート、昨日ここに忘れていっちゃったんで困ってたんです。今日この教科に宿題出てたのに、ノートが無かったから出来なかったし……。これから急いでやらないと!」
聞いてもいないのにペラペラとよく口がまわる。朝から元気だな、ジョシコーセーは。
「じゃあ早く教室で宿題やって来い」
「そうしまーす」
そうしてくれ。
やれやれ。俺はだいぶ長くなった煙草の灰を落とすと、味わうように煙草を吸い込んだ。
「いっけね!」
その、いっけね、は流行ってるのか?
「……ゲホッ……! まだ何かあるのか……!?」
咽ながら律儀に聞いてしまう自分自身が叩き斬りたいほど愚かに思えた。
「シャーペンの芯、全く無かったんだった……。途中で買おうと思ってたのに急いでて忘れちゃった……」
この世の終わりのような顔をして、は呆然と立ち尽くした。
「ホラよ」
「わ! 何ですか?」
俺の投げたモノを危なげにキャッチすると、手の中のシャーペンの芯が入ったケースをデッカイ目をさらに大きくして見つめている。
「全部やる」
「や、でも悪いです」
「構わん。どうせ一本二本持って行ったって途中で折っちまうんだろうからな。大したモンでもないんだ、やる」
そう言いながら俺は立ち上がり、部屋にある冷蔵庫まで歩み寄る。そして扉を開けると中から紙パックのジュースを一つ取り出してに寄こした。
「走ってきたんだろう? 喉が渇いただろうからこれもついでにやる。皆には内緒だ、いいな? さぁ、早く教室で宿題をやって来い」
(ここまでしてやればもうここにいる必要は無いだろう? 早くゆっくり煙草が吸いたいんだ、出てってくれ)
そんな本音を塵ほども見抜かせない己の演技力に脱帽だ。どうだ、お前に残された道は後ろの扉を一刻も早く開けるのみだぞ。そんなお前はどんな顔をしている?
見下ろしてみると、はキョトンとした顔で呆けていた。
しまった、無理があったか。
背中に冷たいものが辿ったのを感じた。
だがその次の瞬間、は駆けて赤くなっていた顔とは段違いの赤さで耳まで染め上げた。呆けていた気を気付かせると、乱暴に視線を外す。そして俯き加減に見上げてきた。
何だ、こんな表情見た事ないぞ。
「ありがとうございます……。何か今日のロン先生、優しいですね……」
「あ?」
「それじゃあ!」
素早く踵を返すと、は来た時と同じ勢いで準備室を出て行った。
な、何だって……??
思いきりいい方向に勘違いしてくれたに若干の申し訳無さを感じつつ、俺は昼休みになると美術室から出られるベランダに赴いた。
校門から玄関までのスロープを見下ろせる隠れた名所だ。昼休みに校門へ向かう者など居はしないので、外の空気を吸いながら大っぴらに喫煙できる格好の場所だ。しかも俺の居る美術室など元よりあまり生徒達は近付かないため、静かな喫煙ライフを楽しむ事が出来た。
だがそんなベランダに先客がいやがった。
手すりに手を掛けながら肩を落としている女生徒だ。
肩ほどの黒髪と背格好からその女生徒が誰なのか該当する者が約一名いたが、その思い当たる名前が頭に浮かぶと嫌な予感が激しくしたので、俺は音を立てずに立ち去ろうとゆっくり背を向けた。
今日はどうも煙草に縁が無いらしい。燻製でも作ってるんですか?と嫌味を垂れる美術部員達の喜ぶ顔が目に浮かぶ。奴等の怨念にも近い思念のせいだとも思える。
そして普段の俺なら有り得ない事に、汗を掻いた手の平から滑り落ちてしまった100円ライターが俺の存在をけたたましく主張したのだ。
「誰!?」
きっと振り向いた顔は、うっすら化粧の乗ってるあの顔だ。
違う。
こんな味じゃない。
この場所で吸う一服はしみったれたこの身体を幾らか目覚めさせてくれる一日でも特別な一服なんだ。喧騒から切り離された目の前の静かな木々だけを脳裏に取り込み、詰まらない小賢しさを超越した無に近い状態でただ煙草を燻らせるのが、俺の一日の密かな楽しみの時間なんだ。
それを横で女の泣き声を肴に呑んで、美味い訳が無い。
ていうか味が分からん。
俺は煙草を口に付け、吸い込み、煙を肺に満たした後、排出する。それだけを機械的に繰り返した。持っていた携帯灰皿はもう飽和状態だ。
3年生のエイミは鼻をすするばかりで肩の震えを止める事を知らない。そんなにハンカチで涙を拭って化粧は取れないのか?横目で俺は無気力に心配した。
結局、こんな所で何してるんだ、と職業上見て見ぬフリは出来なくて口を開けてしまった。するとエイミは大粒の涙を静かに零し、ベランダの手すりに崩れるようにしがみ付いて咽び泣きはじめたのだ。しゃくり上げる声の端々に「ヒュンケル先生」という単語が聞き取る事が出来て、俺は盛大に眉間に皺を刻ませた。だから嫌な予感がしてたんだ。この女の感情の揺れ幅は俺には合わないんだ、クソ。
別に教育実習生のヒュンケルが誰を想おうと、自分に見せた事のない笑顔で笑おうと、俺の知ったこっちゃない。泣き喚こうが化粧を崩そうがお前の勝手だが、ここ以外でやってくれ。そして早く俺にいつもの喫煙タイムを味わせてくれ。頼むから。
俺の願い空しく、エイミはポツリポツリと語り始める。語るな。
「私なんてたくさんいる生徒の内の一人だもの……それ以上として見てくれないのは分かってる……。でも、それでも隣にいたいと思ってしまう、私だけを見て欲しいと思ってしまう。叶わないと分かっているのに……! なのにヒュンケル先生の視線の先にはあの子がいた! 私と同じ生徒なのに、生徒には向けない笑顔であの子に……! 私は…………」
それ以上は覚えていない。脳まで響くような想いの吐露は、俺には最早耳に纏わり付く雑音でしかなく、ただの音として聞き流していた。
もう限界だ。
これ以上無駄な時間を過ごして俺の昼休みが短くなっていくのは耐えられん。怒鳴りたくなるの抑えると、吐き出す声は妙に神妙な声色になる。
「全てお前の想像だ。何一つ真実が見えてこない」
「……ロン・ベルク先生……」
「勝手に想像して勝手に悩んで勝手に泣いてるだけだ。お前は何も知ってはいない」
「だって! …………だって、あの人はきっと……」
「きっと何だ。お前はあいつの何を知っている。」
エイミの真っ赤な瞳が見開かれた。
「お前は何もしていない。やれる事を全てしてからそうやって肩を落とせ。悲劇のヒロインを気取るにはまだ早いんじゃないのか。お前は舞台にも立っちゃいない」
大きく見開かれた瞳は揺るぎなく俺を見つめ、唇を細かに震わせる。痛いほどの熱視線を俺に浴びせながら小さく頷き始めた。
「そう……そうですよね……。ウン、そうします! 私、あの人の事、知らなさ過ぎた!」
「ああ、それがいい。ちょうどいい事にまだ昼休みだ。行くなら今だぞ」
「はい!」
そう大きな返事をすると、エイミは素早く踵を返して美術室に入る扉へと駆けた。
よしよし。
やや無理があったが、万事計画通りだ。我ながら完璧な展開運びに口元をつい緩ませてしまう。化粧は直して行けよ、とその背中をほくそ笑みながら見送った。
するとエイミは扉の前でピタリと身体を止め、驚くスピードで振り返った。
しまった。この顔の緩みを見られてしまう。俺はギリギリと顔中の筋肉を強張らせ、ポーカーフェイスを気取ったが、上手くいってるだろうか。
振り向いたエイミは途端に頬を赤く染め、潤む瞳を俺に向けた。あれ?こんな表情、朝も見かけたぞ……。
「今日のロン・ベルク先生、なんか……素敵です……」
「……あン?」
「ありがとうございました!!」
エイミは素早く腰を曲げると、弾丸のように美術室を飛び出していった。
後に残ったのはきっと間抜けな顔してる俺だけだった。
朝から何やら調子がおかしい。
こんな空気を感じた事はない。
そう呟きながら校舎を歩いてると、ふと目に入った校内新聞の『校内アンケート結果発表!! 校内で一番ダンディだと思う先生第一位!!』に燦然と俺の名前が輝いているのを見て周りにいた生徒達に囃し立てられたり、階段から足を滑らせた女生徒を抱えて助けると今日二度も見たあの表情で「先生カッコイイ……」などと呟かれ(上から落ちて来たんだ、抱き止めるしかないだろう? 下手に避けても俺が怪我するだけだ)、それをさらに生徒達はやんややんやと喝采を上げる。耳を劈く指笛と賞賛の嵐に意識を手放しかけた。
ざわざわと戦慄く身体を必死に歩かせ、俺は廊下を彷徨う。心なしか蛇行してる。
そして震える手を握り潰して、使い物にならなくなってる頭にある一つの事をポツリと浮かべた。
も、もしかして……
275年の人生で、俺の時代が遅れてやって来た!?
そんな浮かれた事を刹那に感じたが、次の瞬間には反吐が出そうな居心地の悪さだけが加速度的に上がっていった。
眉間に皺を寄せすぎているのか、夕方になると痛みさえ覚えてきた。
美術室に不時着するように着くと、唯一まともな活動をしてる美術部員のノヴァが、今日も真面目に静物画の木炭デッサンに取り組んでいた。
アイツらが消しゴムとして使う食パンを貪り食った挙句残ったパンをカビさせ、しかも準備室の引き出しに仕舞い込んだままにしてた事を思い出し、俺はさらに眉間に深い皺を刻み込んだ。アレを片付けたのは誰だと思ってる……。
不機嫌さをさらに増し、俺は気を落ち着かせようと一服しに準備室の方へ向かった。だがノヴァはそんな俺の様子に気付く事なく呼び止める。
「先生! ちょっと教えてもらいたいんですが!」
今はそんな気分じゃ全くと言っていいほどないのだが、唯一まともな部員を邪険にするわけにもいかず、俺はしぶしぶ踵を返しその足をノヴァへと向ける。
「……何だ」
「この静物群、どこから描いたら良いと思います?先生のあの静物画みたく描きたいんです。林檎かな、ビンかな、それともテーブルクロス?」
ニコニコと無邪気な笑顔で見上げてくるその顔と能天気な質問に、今の今まで張り詰めていた頭ン中にある血管が、音を立てて切れた気がした。それはもう、太いのが。
気が付くと喉に痛みを覚えながら盛大に音を吐き出していた。
「知るかッ!! どこから描いたら良いだって!? 俺がビンから描けと言ったらお前はビンから描くのか? 俺がブルータスの耳朶から描けと言ったらお前はブルータスの耳朶から描くのか? いい加減にしろ!! 俺はお前に俺と同じ描き方を再現させる為に教えてるんじゃない!! 最初から完成されたものを求めないでまず自分で描いてから人の描き方を聞けッ!!」
吐き出した後は肩が上下していた。
力無く口を開けたまま俺を見上げるノヴァの目は限界まで開かれている。その大きさのままみるみる涙が湛えられていった。
少しキツく言い過ぎたか。
俺は居心地の悪さを感じ、跳ねていた胸を一瞬にして冷やした。
「か…………」
「か……?」
「感動しましたッ!!」
暑苦しい涙を垂れ流しながらノヴァは俺の両手を鷲掴み、肩が外れそうなほど上下させる。痛いんだよ、バカ。
「そうですよねッ!? 何でもすぐ人に聞いて最短を巡ろうなんて、そんなの調子がいいし勉強にならないし身にならないですよね!? まず自分でやってみる! そう! 僕にはそれが足りていなかったんです!! 気付かせてくれてありがとうございますッ!! 今まで見えていなかった自分を発見できたようで、もう、なんて言うか……! 目からウロコが滝のように出てます!ホラッ! 見えるでしょう!?」
頭が身体を揺さぶられるまま首の上で遊ぶ。
ウロコというより心の汗といった感じの液体が止め処なく溢れてるが、そんなの深い脱力感に襲われている俺にはなんの感動も感情の起伏すらも起こりはしなかった。ただ静かに脳を揺さぶられているだけだ。
「先生! 僕、先生に一生ついて行きます!!」
男が林檎のような赤さで頬を染めて言うセリフじゃねぇんだよ、バカタレ。
そんな嗜好の無い俺には全身に粟立つのを感じるが、いまだ尋常じゃない力強さで俺の手を握りしめ、解放してはくれない。そして手をそのままに、今日何度目になるか分からない、あの最早トラウマになりかけている潤んだ表情を浮かべた。
「今日の先生、なんだかカッコイイです……」
本当にもう、カンベンしてくれ…………
部活も終わる頃。校舎に人影もなくなり静けさが満ち始めた。
俺は準備室の机に上半身を、気持ち的には全身を預けて微動だにしなかった。否、出来なかった。極度の疲労感が身体を蝕んでいくのを感じるが、最早抵抗する気力すら、俺には残されていなかった。口から魂が逃げかかってるのがうっすら見えるのも、この疲労感のせいだろう。
だが扉をノックする音は辛うじて拾う事ができた。
無意識に「起きなくては」という義務感を感じ、重い身体をそろそろと起こして部屋の入り口の方を見遣った。ボンヤリとする視界で捕らえた「白衣」「眼鏡」「だらしない笑み」で校内でこの男以外思い浮かべる事は出来ない。
「アバンか、何だ」
「あは。煙草吸わせてもらいに来ました」
「喫煙所じゃねぇんだぞ、ったく」
別にこんな事は初めてではない。俺も気持ちは分からんでもないが、教職員用の休憩室はどこか居心地が悪く落ち着かない。喫煙者は落ち着く喫煙場所も求めて流浪するらしい。俺はここがあるから感じた事のない悩み事だが。
俺は机の前に設置してあるソファセットに腰掛けたアバンへ、手慣れたようにライターを投げて寄こす。火を借りる名目でここへ来るのだ、コイツは。
「ありがとう。いや〜こんなのでも一応色々お疲れ気味でねぇ。タバコの一本ぐらい吸いたくもなるんですよ」
「珍しいな。愚痴か」
「いいじゃないですか、たまには」
煙草に火を点けると、溜息でも混じらせたような息を素早く一つ吐いた。
そういえば、入試制度の変更とか指導要領の変更だとかで、教科主任達はてんやわんやしていたな。俺には分からん問題だが。
「喫煙に弱音。普段の「アバン先生」からは想像出来ないような姿だな。いいのか、俺に曝け出して。どうなるか知らんぞ?」
「はは。お好きにどうぞ?」
「フン、俺には生徒との道ならぬ逢瀬を知られてるからな。こんな秘密、屁でもねぇって事か」
「ま、そんなトコです」
そう言って煙草に口を付ける。
自分の身を追い詰める事になるかもしれないのに、好き好んでガキに手を出す気持ちは俺には到底分からん。そこまでするほどのモンがあるとは思えないんだがな。だがこの男は普段の笑みとはまた違った穏やかな微笑みを湛えている。脳裏に浮かべてるのはあの黒髪の少女か。
「今日も朝から振り回されたぞ」
「イイ子でしょ?」
コイツは阿呆か。
手に持った火の点いた煙草が落ちそうになる。
俺は暗に迷惑を被ってるんだと言っているのに、何故それが「イイ子」に繋がるのか理解できない。の話が出たら無条件に顔を綻ばせて賛辞が出るというのか。何だその傍迷惑な条件反射は。眉根を寄せ、無意識のうちにあんぐりと口が開いた気がした。これが開いた口が塞がらないと言うヤツか。
「でも、手ぇ出したら殺しますよ?」
口元には今までと変わらない微笑みを形作っているのに、魂をも凍らせる冷たさを伴った視線を射殺す勢いで俺に向けやがる。常人なら卒倒してるぞ。ああ、タチ悪ぃ。
「出すか、馬鹿野郎!」
本気で否定してやると、満足そうに笑いやがった。
「それは良かった」
「お前みたいな不道徳で危ないシュミは持ち合わせておらんわ、一緒にすんな」
「…………やっぱり……マズイですかね……?」
「ああマズイ。激しくマズイ。それこそ首が飛びそうなほどにな!」
俺は首の前で手の平を水平に払ってやった。舌も突き出して。
それが効いたとは思えないが、予想に反した態度を見せた。アバンは神妙な顔付きで手元の煙草に視線を落とし、ポツリと言う。
「……私は本気、なんですけどね」
別にからかった俺に言っているようではなかった。自嘲気味に笑い、もっと見知らぬ何かに向けて言っているかのようだった。
らしくない様子を目の当たりにして、言葉もなくその様子を見てるしか出来なかった。手元の煙草がフィルターまで燃やし尽くそうとしているのにもしばらく気付かないぐらいに。
アバンは煙草を吸い込むと、深く深く、煙を吐き出した。
「誉められる事をしているとは思いません。だけどとの事は私なりに本気で考えているし、なにより心から大切に想っている。ですが彼女にしてやれる事は数少ない。普通の恋人同士なら当然出来る事をなかなか与えてあげられない。仕方ないと分かっていながら、それでもいいと言ってくれる彼女の笑顔を見ると、胸を締め付けられ己の無力さを痛感する。誰が悪いわけでも何かが悪いわけでもない。なのに言いようのない気持ちを覚えてしまうんです……」
俺は煙草を吸い込み、、細い煙を吐き出す。
「そんなの分かってた事だろう」
「そうですね。分かっていた…………つもりだった」
また自嘲するような笑みを浮かべる。
「どれだけ真剣に想い合っていても、一人の女性として愛していても、世間から見れば教師と生徒の不道徳極まりない関係でしかない。実はには言ってないんですが、フローラ先生にバレてしまいましてねぇ、酷く怒られました。なんて事をしているのか、と。もちろん咎められる事は当然だと思います。世間に露見しても私一人が非難されるならまだいい。だが、前途ある彼女にあの憤りがいつか向けられて傷付く事があるかもしれない、そんな事態が容易に予測できると思うと申し訳無くてね……。そんな私との関係を、続けさせていいのか、分からない時があるんです。出来るだけ傷付かないように、心配をかけないようにやっていってるつもりですが、果たしてそれは正しい事なのか……」
「……知っているぞ」
「……え……?」
「あいつは知ってた。お前が顔に出さないようにしている事も気付いていたし、その事で悩んでもいた。心配をかけまいと言わなかった? ハッ! そんなの俺から言わせれば対等じゃない。その時点で十分子供扱いだし、あいつを一人の女として扱ってないのはお前の方だ」
「……!!」
「いいか。そんな糞みたいな悩みは最初から出てくるとお互い分かってたんだ。いいか、もう一度言うぞ、お互いだ!」
俺は手元の煙草を目を丸くしてるアバンに向け、怒気を含ませて声を荒げた。
「つまりもだ! そんな事は承知して付き合って、しかもあいつは楽しんでるし喜んでるんだ! それを今さら蒸し返してウジウジ悩みやがって! 人の目云々より問題はお前にあるんじゃないのか!? ああ、そうだ、お前だ! お前が勝手に悩んで問題を大きくしているだけだ! 折角良い気分でいる所にバケツの水をぶっ掛けるようなマネをしているのは、紛れもなくお前だ!!」
部屋に幾ばくか無言の時が流れる。
アバンは見開いていた目を元に戻すと、俺から外して俯き加減に視線を落とした。
「…………演技には自信があったんですがね」
「三文芝居だ」
「そのようですね」
く、と口角を上げ、自らを嘲笑う。
そしてすっかり短くなった煙草を灰皿に磨り潰した。
「……そうか、気付いてたのか」
顔の半分を手の平に預け誰に言うともなく呟くと、途切れぬ笑いに肩を細かく上下させる。
「クッくくく…………とんだ間抜けだ。気付いていた事に気付かないとは。これじゃ俳優じゃなく道化だ」
「しかもワンマンショーだ」
「手厳しいなぁ」
顔半分のまま俺の方を力無い笑顔で見る。肩の揺れはまだ止まらない。
「自分の情けなさに涙も出ないですよ。そうか、知っていたのか……そうかそうか」
「何で嬉しそうな顔をしている」
「分かりません。何ででしょうね。何でかなぁ」
いつの間にか笑顔の温度が変わったようだ。湧き上がってくる笑みが抑えようとしても抑え切れないといった感じで、ヤニ下がったいびつな笑顔を見せている。アバンの向く方向には棚があるだけだ。だがそんなものを見ているんじゃない。愛しげに見つめるのはもっと遠くの、あの少女だ。
「自分を見ていてもらって嬉しいってか」
「ええ。ますます好きになりました」
「ハッ」
ついさっきまで塞ぎ込んでたヤツがよくもまぁ抜け抜けと惚気てくれるわ。俺は吐き捨てるように一笑に付した。
俺は煙草を新しく一本取り出すと素早く火を点けた。そして手の中のライターをアバンに向かって投げる。それを受け取ると、アバンも白衣の胸ポケットから取り出した煙草に火を走らせた。部屋はあっという間に煙に包まれ、俺達はしばらく静かに紫煙を味わった。
「でもの事でこんなにロン先生に怒られるとは思ってもみませんでした」
「俺には娘たちみたいなもんだ。その娘を悲しませると分かってるようなヤツが目の前にいて、易々と見過ごせる訳ないだろう」
「がロン先生の美術部に入っていて本当に良かったと、心から思いますよ」
「お前に思われてもな」
本気でそう思うのだから、俺は自然と舌を突き出してやった。
いつもの軽い笑い声が戻る。
「……そういえば、何故が知っているとロン先生は知っているんですか?」
何が、そういえば、だ。気になって仕方なかったくせに。
「ここをどこだと思ってる。奴等に乗っ取られた美術準備室だぞ?」
「……あ〜〜」
納得したのか、何度も小さく頷く。
「人を空気か何かだと思っていやがる。ベラベラベラッベラ聞きたくない様な事ばかり目の前で機関銃のように喋りまくるんだぞ。あいつらの口を塞ぐ魔法があったら教えてくれ」
毎日ここで繰り広げられる魔女のミサを思い出すと、心底ウンザリして自然と口が歪んでくるのが分かる。もちろん眉間には深い皺が刻まれていることだろう。 アバンは声を立てて笑っているが、これは笑い事じゃない。俺の静かな日常を脅かす深刻な問題で、由々しき事態だ。分かってんのか、保護者。
役目を果たせていない保護者はその笑みの形のまま俺を見遣る。
「それにしても、娘……ねぇ?」
「フ、フン。数少ない部員だ。そんな様なモンだろ」
「には言わないでおいてあげますよ、お義父さん」
「ぶっ殺すぞ」
バツの悪さに落ち着かない速さで煙草を吸い込み、吐き出す。弱みを握ってたはずが逆に握られてしまったようで、面白くない。
その事に留意してしまったからだ、油断したのは。
「何か……」
「?」
「今日のロン先生、カッコいいですね」
俺の喉が血を噴き出すのも厭わない勢いで絶叫を吐き出した。
何て叫んだかは、俺は知らない。
(2007.4.2)
「先生(の時代)が遅刻(してやって来た)」の略になりました。