着衣水泳
ザブン
ザラリとした壁面に辿り着くと、ポップは水中から顔を出し空気を取り込んだ。
この瞬間こそ、自分が水中では生きられない枷を背負ってる事を何とも言えない気持ちで痛感する一瞬だ。
それは寂しいのか、安堵なのか。
そんな事は肺いっぱいに空気を満たせば、瞬時に忘れてしまうひと時のノスタルジア。
肩を上下させるほど何度も味わう大気の美味さよ。
着衣水泳
そんな意味の無い物思いも次の瞬間には吹き飛んだ。
黒いゴーグル越しと水飛沫でおぼろげではあったが、こんな場所で捉えられる筈のない人影をその視界に捉えた気がしたポップは、慌てて黒色のゴーグルを毟り取った。
飛び込み台に腰掛ける 。
「よ」
片手を顔の横で小さく掲げる。
「よ」
ポップもそれに倣い、水中から右手を出す。
「……覚えてないの?」
「何が?」
「一緒に帰るって約束したじゃん」
「…………やっべ! ゴメン!!」
見渡せばこの屋内プールもオレンジに包まれている。天井近い壁に掛かっている大きな時計が指す時刻は、思い出した約束の時刻より一時間先だった。
「いいよ、そんな気がしたし」
「わっりー……」
ポップは顔を半分プールに沈ませ、見るからに己の失念に落ち込ませている。そんな彼を見て、責める気など端から無いにしても失せてしまう。
「はは、そんなヘコまないでよ、大会近いんでしょ?」
「ああ、来週なんだ! もう少しでタイムが縮められそうでさ、部長に頼んで残練させてもらったんだ!」
プールの水面にも劣らぬほど瞳をキラキラと輝かせて、ポップは語る。は薄く笑いながら、いまだプールにいるポップに近づけるように、飛び込み台に腰掛けている身をやや屈めた。
「ふーん、凄いんだね。今も見てたよ、すっごい速かった。あんな風に泳げたら気持ちいいんだろうねー」
「お前、水泳は?」
ポップは緑色のキャップを取りながら尋ねる。
「……私、プール苦手なんだよ」
「マジかよ、知らなかったぜ。カナヅチ?」
「泳げなくはない……だけど遅い……」
はアヒルのように口を尖らせる。
「ぶっ」
「笑うな! ってかそれで苦手なんじゃないの! …………私、プールの授業の時間が近づくとさ、胸の奥を雑巾絞りされるように、こう、きゅ〜! って苦しくなるの。それが嫌で嫌で……」
「何だそりゃ」
「わかんない? こう、きゅ〜! っと」
は雑巾絞りのジェスチャーを交え、何とか説明しようとする。
「わかんねぇよ」
素直に感想を口にするポップ。
「そっかぁ……だから水泳部なんて入れるんだね……。凄いなぁ……」
「なんかヘンな所で感心してねぇか?」
「でもさ、ポップがそんなに水泳にハマると思わなかったな。たまにサボってはいるけど」
「ああ、オレもそう思う。部長にも注意されてんだけど、オレ、ムラっ気があるからさ、気分の波が激しいんだよな。ハマる時はスゲーハマるの! 今は大会に合わせてノレてるから良かったぜ」
「んな、他人事みたいに。ああでも、ポップってムラムラしてるよね」
「一個多いんだよ!オレは万年発情期かよ!」
「ん、否めない」
「テッメー」
ポップはの茶化しに眉を吊り上げて怒りを露わにするも、楽しんでいた。じゃれ合う心地好さに眉とは裏腹に口角も上がってしまう。 もそんなポップを見て悪戯っぽく笑う。
「それよりもさ、上げてくんない?」
ポップはに向かって手を伸ばす。
「ん」
いつものやり取りにしては短いな、と思いつつも、いまだポップは水中に身を沈めていたんだという事に気付くと、は飛び込み台から腰を上げて何の疑いも無くその手を掴んだ。
手に滴る水の冷たさよりも、その手の大きさと熱さに驚きを隠せなかった。
ポップと手を繋ぐ事なんて、初めてかもしれない。
は急激に高まる熱が手から伝わってしまうんじゃないかと危惧し、見ていた手の先からポップへと視線を移した。
(しまった)
そう思った時には遅かった。
先ほどのじゃれ合いの色を今だ含む顔で、ニヤリと笑ったポップはの手を力いっぱい引っ張った。
盛大に水が弾ける音と共に、はプールにダイブした。
すぐに水を吸って驚異的な重さを誇る物体と化した制服を身に着けているは、その重さにしばらく上下左右が分からなくなってしまった。だが、無意識に漕いだ方向は合っていたようで、水面に顔を出すとようやく空気を取り込む事が出来た。
「ッ何すんのよー! バカーッ!!」
気を抜けば頭の先まで沈みそうだが、ザブザブとその重い身体を引きずってポップまで近づこうとする。
「あはははっ! ザマーミロー」
「んもう!」
腕を上げるのもやっとだが、このままやられっぱなしでは面白くないは、何とかその腕を振るって仕返しとばかりにポップに水を浴びせかける。
「ぶッ!」
大笑いして開けていた口に盛大にプールの水が叩き込まれる。
「ザマミロー!」
「やったな〜」
屋内プールの生暖かい空気が茜色に変わるまで、はしゃぎ声と盛大な飛沫の音は続いていた。
「はぁッ……はぁッ……」
「あーー……疲れた……」
「あぁ……腹痛ぇ……」
二人は並んで水中に身を浸しながらあがる呼吸を整えていた。
は肩と後頭部まで浸し、揺れる水面に身を半分委ねている。
「気持ちいい……」
誰もいない広いプールに制服を着たまま入ってる。
そんな有り得ない状況に贅沢さを感じながらは微かな水音を楽しんでいた。
ぽつりとポップは話しはじめる。
「……さっき言ってたさ、ヤなドキドキ、してるか?」
「……そういえば、してない」
「考える前に飛び込んじまえばいいんだよ。そうすりゃきっと、出るのが嫌になるくらいプールが好きになるさ。お前はいつも考えすぎなんだよ」
ポップは背中越しに両肘をプールの縁に乗せ、天を仰いだ。
「うん……うん、そうかも……」
浸していた頭を上げる。
「ありがと、ポップ」
その声に隣に視線を向ける。
すると の濡れた睫毛や唇、頬に張り付く髪や、濡れた白いポロシャツから透けて見える肌の色など、ポップは息を呑んで目を奪われてしまった。
静かな空間に唾液を嚥下する音が響いてしまったのではないかと、ポップは恥ずかしさに居た堪れなくなり、視線を外す。だが今見た一つ一つが頭の中を出て行ってくれない。
もそんなポップの様子に今この状態がどんなに気恥ずかしいものか、やっと気付いた。すぐそばにあるのは上半身裸のポップ。幾筋も水が辿る胸板は思ったよりも逞しく、プール、という状況を分かっていても邪まな目で見てしまいそうで、は思わず乱暴に視線を他所へ向けた。
幾ばくか無言の時が流れる。
「出よっか」
「うん」
言葉少なに二人はプールの縁に手を掛けた。
水中から出た時に、その威力を知る。
縁に膝を掛けるまではよかったが、次の瞬間、水を吸った制服は強烈な重さでの細い身体に圧し掛かった。
衝撃とも言えるその重さはの身体を崩れさせる。
「あっ!」
思わず傍のポップの腕を掴んでしまい、もつれる様にプールサイドに倒れ込んだ。
身体全体が心臓になってしまったかのように、爆発しそうな鼓動が全身を駆け巡る。
すぐ傍にはお互いの顔、唇、吐息。
永遠とも思える刻の流れを感じる。
もたれ掛かって触れた肌は、ひどく熱い。
「ご、ごめん!」
は慌てて身体を起こそうとポップから引き離した。
だが強く腕を掴まれ、またもや倒れ掛かるように身体を預けてしまう。先ほどより顔が近い。熱く鋭いポップの視線から外す事が出来ない。
「オレも……飛び込んでいいか……?」
夕焼け色とは違う赤みがポップの頬を染める。掠れる声はの胸を打つ真摯さと艶っぽさがあった。
「ずっと……お前の事が……」
濃密な甘さが身体の中心を鷲掴み、目頭を熱くさせる。
はゆっくり、ゆっくりと、瞼を下ろした。
少しだけ、プールが好きになった気がした。
(2006.10.22)