ステージ落下
活気付くにはまだ幾らか早い頃。
昼と夕方の間のこの時間に一呼吸入れようと、商店街全体がのんびりと落ち着いた雰囲気を出しているように感じる。はまばらな人をすり抜け、このランカークス商店街を滑走していく。
『八百屋ジャンク』と書かれた看板を目がけ、こののんびりした雰囲気に合わせるかのようにキコキコとゆったり自転車のペダルを踏む。だが団子の香ばしく甘い香りが鼻先を掠めると、逃げるかのようにペダルを踏む速度を増した。
ダイエット中なんだから、イカンイカン……。
誘惑を振り切り、滑るように進むと、商店街入り口からさほど離れていない所に位置するその店にはすぐ辿り着いた。
繁盛しているのだろう。この時間でも店先に何人かお客がいるようで、は邪魔にならないようにその手前で自転車を降りる。そして手慣れたように店舗兼住居の家屋の壁にもたれ掛けさせ愛車を止めた。
お客の隙間からちょこんと店先に顔を出す。普段の客層とは違う顔に、ジャンクはいち早くの来訪に気付いた。
「よう、いらっしゃい、ちゃん」
豪胆な笑顔とともに出迎えてくれる店主のジャンクは、手に持った大根を顔の側で、よ、と掲げる。
「こんにちは、おじさま」
その響きがこそばゆいながらも嬉しくて、彼女が来るのをいつも首を長くして待っているのを、奥の住居部分から顔を覗かせた妻のスティーヌ以外は知らない。
「あら、ちゃん。いらっしゃい!」
「おばさま、こんにちは」
笑顔で軽く会釈する。
「ポップね? どうぞ上にいるから上がってちょうだい」
「はい、お邪魔しまーす。今度テストなんで今日は勉強会しに来たんですよ〜」
「まぁそうだったの! あの子ったら何にも言わないから……! いつもありがとうね、ポップに色々教えてやってね。あの子どこかフワフワしてて落ち着きが無いっていうか、日々ボンヤリしてるっていうか、ちゃらんぽらんっていうか……」
「おーい! 何言ってやがんだ!」
多種多様な野菜たちが並ぶ店先を抜けたすぐにある階段の上から、話の渦中にいた人物が声を響かせて母の嘆きを中断させた。
「あら、聞こえちゃったわ」
そう言っておどけたように肩を竦めてみせた。が来るのを分かっていたならきっと階上で今か今かと待ち侘びていた筈だ。階下の話に聞き耳を立てている事をちゃんと分かっていながら普段からの嘆きを聞かせたのだった。
「つまんねー事話してないで早く上がってこいよ!」
そんな母の意図を親子の絆で察知したポップは、これ以上己の不利になる事を吹き込まれては敵わんと、母からを引き離そうとした。
「あはは。じゃあ、呼ばれたので上に上がらせてもらいますね」
「ええ、どうぞごゆっくり。あとで苺でも持っていってあげるわね。美味しそうなのが入荷したから」
「わぁ! ありがとうございます! ふふ、楽しみ」
は満開の花のような笑顔で喜びをあらわにすると、軽やかに階段を駆け上っていった。
ジャンクとスティーヌは普段感じないいい香りのする風に頬を緩ませながら、いつまでも階段上を見つめていた。
「お待たせ」
「おう」
はいつもの定位置に座り、持ってきたバッグの中から筆記用具やプリントの束を取り出す。
緑色を基調にした静かな部屋には、紙の上を走るシャーペンの音だけが響いている。二人は取り敢えず学校で配られたプリントに取り組もうと、黙々と問題に向かい合っていた。
「なぁ、ナポレオンの下の名前って何だっけ」
「ボナパルト」
「ボ・ナ・パ・ル・ト」
ポップは少しでも覚えるように、口に出しながらプリントに書き込んでいく。
「ってか下の名前って何よ。ファミリーネームとか苗字とかでしょ」
「通じんだからいいじゃん」
「ま、ね」
下を向いたままの短いやり取りを終わらせると、再び部屋に静けさが満ちた。
その中、遠慮がちに部屋のドアをノックする音が響く。
「あーい」
「がんばってる? おやつよ」
スティーヌがお盆に飲み物と先程言っていた大粒の苺を載せて部屋に入ってくる。
「そこら辺置いておいてー」
大して顔も上げず、ポップは素っ気無い声で返す。
「さっき嬉しがっておいてなんですけど、どうぞお構いなく……」
「いいのよ、ウチはこんなものしか出せないから」
「あら。私、いつも嬉しいです。フルーツ大好きですもの。ご馳走様です、おばさま」
「うふふ、よかったわ」
本当にいいお嬢さんね、ポップ! とスティーヌは口に手を添えて息子に向かって話しかけるが、ジェスチャーだけで隠すつもりなど毛頭無いので、その内容はには丸聞こえであった。
「ああッ! もうッ! 勉強してんだから早く下行けって!」
おば様ってガラか?というツッコミも、自分を差し置いて何やら二人だけで盛り上がってるのにも、いまだ進展が無いのに茶化された事も全て、吹き飛ばさんとばかりに顔を真っ赤にしてポップは喚く。
「あらら、怒られちゃったわ。じゃあ退散するわね。ごゆっくり〜」
は小さく会釈をして暢気な声のスティーヌを見送った。
「ったく……」
頬を紅潮させたポップの小さい呟きの横で、同じように頬を微かに赤らめたは、それを誤魔化すかのように今運ばれて来た赤い実の山に手を伸ばす。
「折角だからいただきまーす」
は一つ摘んだ苺を噛る。
完熟の実に蓄えられた果汁が小さな口の端から零れそうになり、慌てて啜る。
ちゅ、とそれは小さく小さく、聞き取れないほど微かな音であったが、その様を凝視していたポップの耳は漏らさず掬い取った。
「……女が苺食べてるトコロってエロいのな」
もう一口運ぼうとして開けられたの口は、そのまま一瞬硬直させ、そしてすぐにきゅっと閉じられた。
「何だよ、食わねぇのかよ」
「そんなこと言われて食べられる訳無いじゃない! バカ!」
顔を真っ赤にしたまま威嚇しても、なんの威力もない。その恥らう顔すらポップには絶好の獲物だった。
「いいから食ってみろって」
ニヤニヤと今だ指先に摘まれている食べかけの苺を見つめる。
「ヤダ! 絶対ヤダ!」
「いいじゃんよー」
「ヤ・ダ! 何よ、ヤラシイ顔して! このエロガッパ!」
「誰がエロガッパだ!」
「下に行ってキュウリでも食べて来たらいかがですか? ミスターエロガッパ!」
「ッのやろー! ぜってー食わす!」
皿に転がってる苺を引っつかみ、の口目掛けて照準を合わせ、ジリジリとにじり寄る。ポップから逃げようと必死の形相で慌てて腰から後退するが六畳の部屋では逃げ場などなく、あっという間に部屋の隅まで追い詰められ、本棚を背に両手でバタバタと遮ること位しか抵抗する術は無かった。
は苺を摘むポップの右手の手首をはっしと両手で掴み、睨み合いのまま猛攻に耐える。
「ぐぬぬぬぬ……!」
「大人しく……食え……!」
「今は……絶対に……嫌だ……!」
バチバチと攻防の火花がムダに爆ぜる。
「あらあら、賑やかね」
「「うわぁ!!」」
いつの間にか部屋に顔を覗かせていたスティーヌは、ころころと笑いながら二人のじゃれ合いに目を細める。
やり取りを見られていたのかと二人は一斉に頬を赤らめたが、スティーヌはそんな事には気付きもせず思い出したかのように用件を口にする。
「あのねポップ、勉強中に悪いんだけど少しの間、店番しててくれる? 急に商店街の寄り合いにお父さんと行かないといけなくなっちゃって……」
「あ、ああ。別にいいよ」
「ゴメンね、ちゃん、せっかく勉強教えてくれてるのに」
スティーヌは心底申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる。
「い、いいえ、構いませんよ」
それを聞くと笑顔で返し、相当急な話だったらしくバタバタと忙しく二人連れだって出掛けていった。呆然と二人を部屋の窓から見送ったポップは、慌てて身を翻す。
「じゃ、ワリーけどちょっと下にいるわ」
こうしてる間にも客が来てしまうかもしれない。なんだかんだと言って八百屋の一人息子という責任感をポップも持っていたんだと、は内心喜ばしいような妙な親心を持ち、ニコリと微笑む。
「いいよ、気にしないで。一人で勉強させてもらってるから」
「おぅ。何かいるものあったら言えよ」
「ありがと」
長らく店を空けておく訳にもいかない為、ポップは足早に階下に降りて行った。
は一人残された部屋で静かにポップへエールを送った。
既に商店街は茜色に染まり、夕飯の買い物に勤しむ人々の波が慌ただしく行き交う。
一時間程だろうと読んでいたポップの予想は外れ、かれこれ二時間は経過していた。両親達もこれほど時間がかかってしまうとは思わなかったらしく、申し訳なさそうに駆け足で帰って来た。しかも嬉しいやら悲しいやら、店は途切れることの無い客足で、ポップは二階のの様子を窺いに行ける余裕も無かった。
家族全員で大好きなを、客人であるのに一人にさせてしまった無礼に慌てふためいていた。普段見た事の無いジャンク一家の慌てッぷりに、客達はどうしたのだろうと頭上にいくつもの疑問苻を浮かばせていた。
「ワッリー! 遅くなっちま…………った……?」
自室に飛び込んだポップが見たものは、自分の腕を枕にしてすやすやと寝息をたてているだった。
パチパチと目を瞬かせてそんなを見る。
小言の一つでも貰うのかと思っていたポップは、防御体制に入っていた身体を弛緩させ、一つ小さな息が鼻を抜ける。ドアを後ろ手に閉めてそろりと近付くと、遠目にその顔を覗き込んだ。
テーブルに頭を預けて小さな肩を規則的に上下させ、気持ち良さそうに眠り込んでいる。
ふと見たのが、テーブルに乗っている空の皿。さっきまで山盛りに積まれていた苺が姿を消し、緑のヘタだけが綺麗に残されていた。
あの光景がフラッシュバックする。
滴るほどに果汁を湛えたあの赤く熟れた実を、さも美味しそうに含んだ薄紅色の、それこそ完熟であるかのような艶やかな唇が、ここにある。
この唇と口付けしたら、
この唇が嬌声を紡いだら、
この唇が己の身体を這ったら、
この唇が己が分身を含んだら……
あの様は健全な青少年の想像力を後押しするには充分な淫靡さがあった。
ぐびりと鳴った喉の音と共に、五月蝿いほどの心臓の音が耳に障る。
気付いた時には既にの横に腰を落とし、顔を覗き込んでいた。
は腕に乗せた頭を横へと向かせ、無防備な寝顔を晒している。夕方の茜色に染められた白い肌も、頬にかかるさらりとした黒髪も、驚くほど長い睫毛も、微かな寝息を紡いでいる薄く開かれた艶やかなピンク色の唇も、全てポップの劣情を煽りはしても留める事など出来なかった。
この関係を進めたかった。
言葉には何一つ表してないけど、自分達は想い合えてるんじゃないかと自惚れはあった。だがたった一つ、ほんの少しのきっかけで、進めたはずのに自分達は敢えて気付かない振りをしていた気がする。今の距離や温度があまりにも心地良くて、進まなくてもいいんじゃないのかと思った事もある。けれどこのままでいられるなんて出来やしないことも分かっていた。だからステージに立つ勇気ときっかけを目の端でいつも探していた。今日だって心底浮かれいて、テスト前なのに勉強なんて手に付かないだろう事は分かりきってても約束を取り付けたんだ。
そんなポップに目の前の無防備な唇から目が離せなくなっているのは仕方の無いことだった。
跳ねる心臓が煩い。
息遣いが聞こえないじゃないか。
忌ま忌ましげに己の正直な身体を呪う。この激しい鼓動で全身が揺れている気さえする。
ポップはそんな身体をなんとか操り、徐々にとの距離を縮めていく。
物音を立てないようにゆっくりと身体を屈め、出来るだけ近づけるよう無意識に唇を突き出す。そして柔らかな自身の香りと共に、苺の甘い芳香が鼻先を掠めるほどの距離まで近付いた。
突き出した唇が完熟の唇を捕らえようとした時。
「ッぅぴゃあぁ!!」
は奇天烈な叫び声と共に身体をびくりと盛大に揺らす。そしてその拍子のまま顔を起こした。
「ああ……ビックリしたぁ……。学校のステージから落ちたかと思ったぁ……!」
意識を覚醒させながら、夢だったのかと一つ息を吐く。
まだボンヤリする頭にあるものが飛び込む。
「ん? 何してるの? ポップ?」
腰を抜かしたまま本棚に背を預けたような恰好で、固まってしまっているポップ。その顔は驚愕に引き攣らせていた。
は途端に疑わしげな視線を投げ掛ける。
「あなた、もしかして……」
「ち、違う! 違うんだ!」
慌てて否定の言葉を口にする。
「私が寝てるのをいいことに、襲い掛かって服脱がせてあんなコトやそんなコトまでして、揚句の果てにはビデオとか持ち出してエッチな撮影とかしようしてたんじゃないでしょうねッ!?」
「ば、バッカヤロー! そこまでするか! キスだけだ!!」
しまったと口を塞いでも、もはや出てしまった言葉は引っ込められる筈がない。
「やっぱり変なコトしようとしてたんじゃない! バカバカバカバカ、カバー!!」
「う、うるせーな! いいじゃねぇか、キスくらい! だいたい男の部屋で無防備に寝てんじゃねぇよ!」
「お腹いっぱいになったら眠くなっちゃったんだもん! それに寝てるからって襲っていいと思ってんの!? バカ! エロ! エロガッパ!!」
「誰がエロガッパだー!!」
「エロガッパ! エロぬらりひょん! エロチュパカブラー!!」
はこれでもかという位、口を大きく開いて喚いた。
「言いづらッ! チュパカブラ言いづらっ!」
「ポップなんて藤●弘、探検隊に生け捕りにされればいいのよーッ!!」
真っ赤な顔でズレ始めた罵倒をぶつける。ポップはそんなに違和感を覚え、片眉を上げて恐る恐る、でも口の端を緩めながら訊ねてみる。
「…………っていうかさ、お前ぇもしかして、……照れてる?」
はひくり、と顔を強張らせる。
そして次の瞬間、顔中を完熟の苺のような赤さに染め上げると、
盛大な破裂音が夕暮れのランカークス商店街に響いた。
ジャンクとスティーヌは店先で肩を並べ、落日を見上げながら呟いた。
「平和ねぇ、あなた」
「ああ、平和だ」
後ろで、帰る照れんなようるさいバカ待てって、という喧騒と、階段を転がり落ちるけたたましい平和とは対照的な音が響いているが、今日も八百屋ジャンクは平和だ。
たぶん。
(2006.10.22)