それを故郷というのです
それはまるで死地に赴くとは思えない明るさだった。は柱に身を預けながらそう思った。
遠足の準備でもしているような賑やかさで、気球に次々と荷物が積み込まれていく。その荷重が飛行に多大に影響する為、必要最低限の個数ではあるが、その一つ一つに大仰な掛け声を上げながら手から手へと渡している。それが自分たちの為に無理やり奮い立たせているのも分かっていた。笑顔で送り出してくれようとするその気持ちは嬉しかったし、ありがたかった。だが、いつになっても戦場に向かう前に感じるこの心の震え。それがどれだけ慣れたといっても、感じなくなるほど感覚が麻痺しているわけではない。強者に対峙する喜びからくる高揚など、我らが矛先の小さな勇者と銀髪の戦士が感じていればそれでいい。自分にはそんな境地を見出す事など、この先ないだろう。マァムはちょっと踏み込みかけてるけど、まぁ、止めはしないわ。は、パプニカの兵士たちだけに準備を任せておくのも気を揉むのか、とうとう手伝いはじめているマァムを見ながらそう思った。
「もうすぐ出発だね」
やや離れた所から聞こえた気がする。はその方向に顔を向けた。
「アポロ、さん……」
アポロはの方へ歩いてきた足を、その場で止めた。人と話すには幾ばくか離れすぎている間隔で。
その顔には柔和な笑みを浮かべているが、それだけだった。いつまでも口は開かない。ただただ、と視線を交わしたまま、無言の時が流れる。
何か言って欲しかった。
は自分が望む言葉をいつ紡いでくれるのかと、瞬間が永遠に感じる間で待ち望んだ。だがアポロの唇は依然と閉じられたまま。それは固く結ばれ、綻ぶ隙など見られなかった。けれどそれとは逆に、アポロの瞳は雄弁に語りかけていた気がする。微笑みとは裏腹の切なさでを見つめ続ける。目を細め、瞬きを忘れ、瞳を通しての姿を己に叩き込んでいるかのように。
何かを言おうとしてくれているのは分かった。きっと忙しいだろうに、こんな時に自分の所に来てくれるぐらいなのだ。死地に赴く自分へ何か伝えんと来てくれたはずなのだ。むくむくと湧き起こる甘い期待がを焦らす。だが、それでもいつまでも言い出さないもどかしさと、離れがたくなる愛しさに耐え切れず、はとうとう視線を下に落としてしまった。
アポロから目を逸らした事など初めての事だった。
その時、集合の声が掛かった。
顔を上げて見れば、気球に熱は十分に蓄えられており、今にも飛び立たんとゆらゆらと揺れている。早い者はもう既に籠に乗り込んでいる。出発の時間だ。
「……じゃあ、私……行きますね」
「あ、ああ……」
一拍、二拍置いてみたものの、やはり続く言葉はない。はとうとうアポロに顔を向けた。口角を上げた口元とは裏腹に、眉は顰められている。
「何も……言ってはくれませんの?」
「……私が言いたい言葉は……全て、君を困らせる」
それでも欲しいのに! は弾かれるように思った。――いや、もしそんな言葉を貰ったら、まともでいられる自信もなかった。後ろ髪を引かれ、それは迷いとなって己の剣を鈍らせるだろう。寸分の迷いが生死を分ける。そんな戦場に立とういうのだ。そう考えてくれるアポロが正しかったのかもしれない。
確かなものを持って赴きたかったが、それはただの我が侭だと気付いた。今生の別れにみっともない姿を晒すなど己の矜持が許さない。自分に言い聞かせるように、ハッキリと口を動かした。
「わかりました……」
掠れる語尾を隠すように、は駆け出した。視線を交わらせる事なく、アポロの横をすり抜けていく。
だが、掴み止められる衝撃に体が揺れた。
振り向けば、アポロの大きな手がの左手を捕らえていた。
「ア……」
名を呼ばせるよりも早く、アポロはズボンのポケットから何かを取り出し、握り止めていたの左手にしっかりと握らせた。
「これだけ、持って行ってくれ」
驚愕と、その真剣な眼差しに圧倒され、は声も出ない。呆けながらも視線を落とすと、そろそろと指を広げてみた。
手の中に転がるのは、真鍮製の鍵だった。
鈍い黄色がパプニカの朝日を受けてきらりと光る。
どうして「鍵」が今ここにあるのか、にはすぐに理解できなかった。その疑問を口にすべく、鍵からアポロへと視線を戻した時、
「おぉーい、! 何してるんだ、早く乗れよ!」
というポップの声が聞こえてきた。は反射的に止まっていた足を再び動かしてしまい、もう止める事は出来なかった。仕方なく動かすその足で、手の中に感じるごろりとした感触と、肩越しのアポロとを交互に見やりながら。
とうとう疑問もお礼も口に出来ないまま、気球は蒼穹に旅立っていった。
後ろではポップの逃げ出しをネタに笑いが起こっている。
は籠の縁に肘を掛けて、その賑やかさを耳に引っ掛けているだけは何とかしていた。楽しそうな空気には敏感に乗るでも、今はそんな気になれなかった。
「よ〜。お前、さっきからなぁに塞ぎこんでんだよ? ……ははーん、さては「アポロさんと離れて、寂しいですぅ〜」とか思ってるんだろ? どうだ? 図星だろ?」
先ほどから空気の読めないポップに、音も立てずに堪忍袋の緒を切った。
「そうよぉ〜。私はたった一人離れただけですっごぉく寂しくなるの〜。このクソ狭い中で多角関係ガチバトルを繰り広げるポップほど器用じゃないからね〜。羨ましいわぁ。油断も隙もルールも容赦もない賑やかなリングのど真ん中に居られて〜。賑やか過ぎて私は見てるだけでもうお腹いっぱ〜……」
「す、好きでやってんじゃねぇや!」
これ以上はかなわんと、ポップはの言葉を遮って早々に撤退した。おっとりした口調の中に毒が混ざるの語り口は、ポップは正直苦手な方だったし、そこに機嫌の悪さがプラスされたら勝てる気などしない。退散するが吉と、すごすごと去っていった。
一つ息を吐くと、は再び籠に寄り掛かる。そして辛うじて見える大礼拝堂の尖端を再び見つめた。もうすぐ水平線の向こうに消えてしまいそうだ。
は左手をゆっくりと胸の前まで上げると、慎重に開いていった。やはりそこには鈍い光を放つ鍵が一つあった。手の平にはくっきりとその跡をかたどっている。
「パプニカ、見えなくなっちゃったわね」
横から掛けられた声に、はびくりとしながら振り向いた。隣にはレオナがどこか切なげに微笑んでいた。エイミも側に控えている。
そしてようやく言葉の内容が頭に達し、またも忙しく首を前へ振った。水平線は綺麗に弧を描いている。見えなくなるまで見守ろうと思っていたのに、一瞬でも失念していた不甲斐無さには深く肩を落とした。
「あらあら。消えちゃったわけじゃないのよ? ちゃーんとあの水平線の向こうにいるんだから、そんな顔しなーいの!」
レオナはの頬を突付いて笑いかけたが、パプニカに別れを惜しんでいたのは良く分かった。それでも笑いかけてくれるレオナに、も笑顔で返した。
「ねぇ。もしかしてその鍵、アポロに貰ったの?」
「う、うん。さっき、別れ際に……」
途端に満面の笑みを浮かべたレオナは頬を赤く染め、エイミとキャッキャと沸き立った。思わぬ反応には目を丸くする。
「ねねね。ちょっと見せてくれる?」
「い、いいけど……。はい、どうぞ」
は不思議に思いながらも、鍵をレオナへと渡した。
「ありがとう。――ンまー! こんな飾り気のない鍵はじめて見たわ! アポロらしいっていうかなんというか」
「あら姫様。これ、執務室の鍵じゃありません?」
「あー……ホント! きっと持ってた鍵をそのまま渡しちゃったのねー。全く、時間はあったんだからちゃんと用意すればいいのに! 、帰ったらイイ物を買ってもらいなさいね?」
この盛り上がりは何だろう。はよく分からなかった。その顔にレオナの頭に不安がもたげた。
「……? もしかして、この鍵の由来、知らないの?」
「知らない」
ふるふると頭を振った。
あちゃー、という残念がる声が二人分上がる。なんだかこの鍵の事で思い悩んでる自分がバカみたいだ。しかもアポロもバカにされているようで面白くない。は頬を膨らませて鍵をぶん取り返した。
「何よー! この鍵に何があるっていうのよー!」
顔を真っ赤にして怒るを見て、からかい過ぎたかとバツが悪そうに笑う二人は、手を振りを宥めた。
「ゴメンゴメン。あまりにもあなた達っぽくってさー」
まだ反省してないんじゃないかとも思え、訝しむ目で見下ろした。レオナは「まぁまぁ」と悪戯っぽく笑う。キリがないとは諦めたように溜め息をついた。
「アポロって大事な事を口にしない事があるでしょう?」
急に聞かれた事に戸惑いながらも、それを否定する要因が見当たらずには口を開けずにいる。
「実はね、パプニカ男ってそうなのよ」
レオナは苦笑まじりに言った。
「我がパプニカの民は神の敬虔な信徒であるし、自らを厳しく律するのを善しとするの。海と山に囲まれ育まれた奔放で開放的な気質を内包しながら、ね。内に迸る熱情を伝えたくても、己の感情に振り回され取り乱す事などあってはならない! って、その二律背反にパプニカ男の誰もが葛藤するのよ。そんな時、パプニカの男たちは思いの丈を込めて、鍵のモチーフがついた物を女性に贈るの。いつでも僕の心の扉を開けに来ていいんだよ、っていう意味でね。――まぁ、私はそんな受け身な男が好みじゃないから国内の男と婚約なんて真っ平ゴメンだって突っぱねてたんだけどね〜」
姫様ったらどんな縁談もお聞き入れにならないんですもの大臣が困り果ててましたわー本当にもうあの時の大臣の顔ったらほほほだって持ってくる話みんな良家のモヤシっ子ばかりなのよ吹けば飛んでっちゃうわよあはは、というパプニカ女の気質であろう賑やかな歓談好きで華が咲いている。そんなレオナたちの言葉が耳にも入らず、タキは手の中の小さな真鍮の鍵を、穴が開くほど見つめていた。
思いの丈。
それがこの真鍮の塊に籠められている。
そう思うと、急にこの鍵が愛しく見えてきた。飾り気どころか無駄もないその武骨さの中に小さな傷がいっぱい付いていて、精一杯に役割をこなす真面目さが窺える。まるで持ち主のようだ。は一つ笑みを零した。
「私……帰っていいのかな」
「そうよ」
見れば、隣のレオナは目を細めて微笑んでいる。
「帰るところが、出来たのかな」
「そうよ。それを人は故郷というのよ」
故郷。
それは二度と帰れない場所の事かと思っていた。諦めにも近い境地で手放し、ずっとずっと高い所に浮かばせていたものだったのに。
「そう……そうなの……」
待っている人がいる。そこが故郷なのね。は手の中の鍵に語りかけるように呟いた。
は首の後ろに手を回すと、首に掛かっているアバンのしるしの止め具を外す。そしてチェーンの先を黄銅色の鍵に通し、再び首に掛けた。耳元をすうすうと通り抜ける真っ直ぐな風にあおられては、普段よりかなり近い陽光を受けて、眩しい光を断続的に放っている。武骨な鍵は胸元にごつごつと当たるけれど、いつでもアポロの存在を感じられて、我ながら好い事をしたと口元を緩ませた。
「きっと、帰ろうね」
は鍵を口元に寄せ、口付けを落とした。
「ええ、必ず帰りましょう。……私たちの故郷へ」
レオナもエイミも、今はもう見えない彼の地に思いを馳せた。
この空の続く先に あなたがいる 故郷へ