完全敗北記念
「悔しいわ」
華奢な白い陶器製のカップをソーサーに乗せると、は溜息混じりに呟いた。
「何が?」
琥珀色の液体からかぐわしく立ち上る芳醇な香りを楽しみながら、レオナは視線だけを目の前の に寄越した。旅先からパプニカへ久しぶりに帰ってきて、携えてきた土産話を雑談交じりに披露している最中にそんな事を言われれば、当然出てくる疑問詞だった。
「私、アバン先生に勝てるものが一つもないわ。恋人同士ってもっと対等なものでしょ? なんだか負けっぱなしな気がするのよね」
相変わらずおかしな事を言い出すもんだ、と既に諦観の境地でレオナは持っていたカップに口を付けて喉を潤した。
「それは……なんかしらあるでしょ?」
「だって先生ってば、剣技はもとより武芸百般に通じてるし、知識はあらゆる分野に深い造詣と博識をお持ちだし、性格は優しさと強さに満ちて、人を楽しませようとする気も忘れない。手先は器用で料理も発明も趣味の域を超えてるし。いつもとぼけた風にされてるけど、あの伊達眼鏡を取ったら素顔だって結構格好良いのよ? そりゃヒュンケルほどじゃないけどアレは観賞用だし、先生は実用的に格好良いの! クラスで3番目って感じ! それにすごく熱っぽくて、二人きりの時なんて常に愛の言葉を囁いてくれるし……。スゴイのよ、同じ言葉なんて二度も使わないんだから!!」
レオナは口に含んだ紅茶を一国の主らしからぬ行儀の悪さで放出しそうなったが、すんでのところで踏み止まった。
「……あなた、それノロケ?」
「だって本当だもん!」
目は本気色。
「ああハイハイ、そうですね!」
微妙に凄い情報をもたらしてくれた惚気に、実際、否定すべき所も無いので、レオナは自棄気味に紅茶を煽る。だが恋は盲目とはこの事か。自分も気を付けねば、と自らを律した。
「でもあんな特殊な人を好きになったんだもの、そんなの贅沢な悩みじゃない」
「ま〜ね……。それにこんなコト本人に相談したって『恋した瞬間から、私はに完敗なのですよ』とか上手い事言われそうだもん」
「あははは! 似てる! しかも言いそう! ソレ、凄く言いそう!!」
「でしょ? でしょ? まだあるんだよ。『あいにくと切れ者ならば私以上がもういる』」
「に、似てる!! メチャクチャ似てる!! あはは! あははははは!!」
エアーメガネを中指で押し上げながら、 は片方の口角をニヤリと上げる。これも似てるらしい。レオナはさらに涙を流して爆笑した。
「あはっアハハ……ぅ、ひ……くくく……!」
「でもこんな特技、ピンポイントすぎて一般受けしないし。もっとメジャーな特技がいいのよね……」
は肩をすくめながら両手を掲げる。また吹き出しそうなレオナはよじれる腹を押さえつけながら涙を拭って息を整える。
「ハァハァ……あー笑った。……メジャーなモノねぇ。料理なら頑張れば勝ち目があるんじゃない?」
「そうかな?」
「ま、武芸百般より現実味があるわよ」
「うん…………うん! そうかもね! やってみる!! ケーキなんてどうだろう!?」
俄然、やる気のでてきたは目を輝かせてレオナを覗き込む。
「いいんじゃない?のお菓子美味しいし、私好きよ」
「本当に? ありがとう! じゃあそうするね! ううーん、何のケーキにしようかな! あ! 今は木苺が美味しいかも!」
相談というよりも大きな独り言をしているを、レオナは椅子の背もたれに身体を預けながら見守った。こうして年相応の娘のようにはしゃいでいるのを見るのも、一年前の惨状を見れば喜ばしいものだったからだ。
「木苺なら城までの斜面に生ってるわよ」
「私、取ってくる!」
言うが早いか駆け出すのが早いか、は立ち上がったかと思うとあっという間にこのプライベートサロンの扉まで移動していた。レオナは慌てて声を掛ける。
「昨日は雨が降っていたから気を付けてね!」
「分かってる〜!」
声だけを残して姿は既に見えなくなっていた。
嵐の過ぎたような静けさの中、サロンに一人残されたレオナの呟きが誰に届くともなく響いた。
「本当に分かってるのかしら、あの子……」
「大漁、大漁〜」
緋色の宝石のような実をカゴいっぱいに摘み取ったは、満足気にそのカゴの中を見た。つやつやと弾けんばかりに生った実を眺めていると、思わず目尻が下がり、口内に唾液が満たされる。味見ね、と誰に聞かせるともなく一言断りを入れると、その緋色の実を一つ摘んで口の中に放り込んだ。少し酸味が強かったが、砂糖とリキュールに漬ければきっと美味しくなる。は完成したケーキの味を思い浮かべると、一人口元を緩めた。
「うーん、でももう少しだけ集めようかな」
今でこそ両手に溢れるほどだが漬けたら嵩が減る事を見越して、今の量では心許ないとは思った。目の前の木からは取り尽してしまった為、は木苺の生っていそうな低木の群生を山の斜面を見渡して探す。
小高い山の頂上にパプニカ城は鎮座している。その城に辿り着くには長くくねった一本道の階段坂のみだ。城の防衛機能として敵の侵入経路を定めるのは防衛側には有利に働く為、こうした所にも築城の知恵が施されていた。もし城に攻め入るのならば、弓矢の標的にされる事を覚悟して一本道を通るしか道は無く、そこを避けて丘を登って奇襲しようとしても、斜面の坂は人の足には急過ぎるのだ。
その急な斜面にはいた。
所々に生る木苺を求め、斜面から斜面へ慎重に渡っていた。この山は裸山に近い山で、一度転がれば引っ掛かる木も無く、麓までまっ逆さまだろう。
は次なる実が生る木を見つけ、顔を輝かせる。
が、逸る気持ちが足の運びの慎重さを欠いてしまった。
これまで雨上がりで活発的になって襲ってきた毒蛇を三匹追っ払った。だが、レオナの先程の言葉はこの事ではなかったようだ。
―――昨日は雨が降っていて 滑る から、気を付けてね―――
警告の真の意味を知った時、の瞳に最後に映ったのは、散らばる緋色の木苺だった。
「あれ?」
次に飛び込んできたのは既に薄暗い部屋の天井と、心配そうに覗き込む愛しい大きな恋人だった。
「、目が覚めましたか」
ボンヤリとする頭でこうなった経緯を思い返そうとするが上手くいかない。もう夜半なのか、ベッド脇にあるであろう蝋燭の揺らめくオレンジ色の光が余計に眠りを誘う。額から頬にかけてなぞられた大きな手の平の感触が心地良い。
「私……」
「城の山の麓で倒れていたんですよ。それはもう、傷だらけで。……まだ痛みますか?」
は小さく首を左右に振った。
「そう、それは良かった……」
そう言って柔らかく笑ったアバンの笑顔を見て、は胸のどこかがチクリと痛んだ。
(あれ、もしかしてコレ……)
「木苺を取りに行っていたそうですね。でも何で木苺を取りになんて行ったのか、レオナ姫は本人から聞けと、教えてくれないんですよ」
「あ! 木苺!」
頭は完全に醒めた。掛け布団の中から両手を出して見ても、そこには当然、何も無い。折角あれだけ集めた木苺は、きっと数年経てば山の中腹から麓まで一直線に生ってしまうことだろう。大きな小動物としてその役目を思いきり果たしてしまったは、か細く嘆息をこぼした。
「? 城下町から戻ったら傷だらけの貴女が運ばれてきた時の私の気持ちが分かりますか? 恥も外聞もそっちのけで大声で貴女に縋りついた私の気持ちが」
(あ、やっぱり怒ってる……)
はバツの悪さに逃げるようにして顔を半分、布団に埋めた。
「心配かけて、ゴメンなさい……」
大きく円らな瞳を不安げに潤ませながら見上げられて、これ以上つまらない小言を言える男がいるだろうか。否、いない。息を呑んで一瞬時を止めたアバンは、深い溜め息と共に頭をうな垂れた。そして一拍置くと、おもむろに顔を上げる。その時にはもういつもの笑顔に戻っていた。
「思い上がりでなければ、にもこんな思いをさせてしまったのですね」
「分かって、もらえた?」
「ええ、身に染みて」
薄く笑い合うと、アバンはを一度強く抱きしめた。
「で? 何で木苺なんて取りに行っていたんですか?」
は胸の前で指をもじもじさせながら、渋々と話しはじめる。
「私ね、アバン先生に勝てるものが何一つ無いな、って思ったの。私は先生の隣に居ても見劣りしないで肩を並べていられる、先生に相応しい女性になりたかった。おこがましいかもしれないけど、私には深刻な悩みだったんです……。だから先生に勝てるものが何か一つでも欲しくて、ずっと自分に出来るものを探していたの。それをレオナに相談したら、料理なら何とか頑張ればイケるかもって言って貰えたから、早速作ってみようと思って材料を集めに木苺を探しに行ったんです。ただ、それだけ……」
聞き終えるとアバンは少し肩を浮かせて、息を吐くと共に下ろした。そして目を細めるように微笑む。
「そうでしたか……。話してくれて、ありがとう。――でもね、。こういう事に勝つとか負けるとか考えるものではないでしょう?」
「そうなんですけど、ね」
もし、に犬の耳でも生えていたら、ものの見事に垂れていた事だろう。それほど見るからにしょげていた。結局ケーキも作る事も出来ず、しかもこうしてアバンに心配をかけてしまった自分に、心底情けなく感じていた。アバンはそんな耳が見えた気がして、慌てて胸の前にあったの手を両手で包んだ。
「もし勝ち負けがあるとしたら、貴女に恋した瞬間から、私はに完敗なのですよ。さっき私の様子を話したでしょう? 私を殺すなら刃物は要らぬ、ってね」
「アバン先生ぇ……」
頬を薔薇色に染め、は瞳を潤ませながら目尻を細め、アバンを見上げる。華が咲いたようなその笑顔にアバンは嬉しくなった。が、その顔がよもや、一言違わぬ言葉で自分の予想が的中したと喜んでるのが半分ある、とは夢にも思うまい。
ふ、とは神妙な面持ちで眉根を顰める。
「……それでもなんだか納得がいかないわ。上手くはぐらかされた感じ」
「おやおや」
軽く笑うと、アバンはへと体を屈めた。
「じゃあ、教えてあげましょうか? 私が逆立ちしても貴女に敵わないもの」
「うん、知りたい」
「それはね…………」
耳元で寄せられた言葉に、は顔から胸元まで木苺よりも赤く染め上げた。