誰が為の夜想曲?


 


バーカウンターに所在無げに置かれたグラスを眺め始めて、もうどれ程の時間が経ったのかには分からなかった。
在り来たりな旅人の格好、在り来たりな喧騒、在り来たりな音楽、在り来たりな呑んだ暮れの自分の姿。
何処までも其処彼処に在り来たりな酒場の雰囲気が転がっている中、は緩く、グラスの縁を撫ぜた。
冷たく伝わるグラスの感覚は、酔いどれた女の指には酷く心地良い物に感じる。

からり、照明を弾くグラスの氷が、乾いた音を立てて崩れた。
透明な琥珀色――眺めている内に随分薄くなってしまった――の液体は、氷に揺らされて表面に僅かな細波を立てたが、光を弾く波はグラスの壁に阻まれ、やがて静かに収まった。
遠く近く、弦楽器の奏でる音が喧騒に混じって耳の中に木霊しては消えていく。
酷く音が遠く聞こえるのは、廻った酔いの所為だ。
鼓膜から伝わる振動が鈍く脳裏に響いているだけで、どの音も意味を成さない雑音として脳内を過ぎっては消え去って行く。

ぼんやりと、或いは陶然と琥珀の波が消え去るのを見つめていたは、胸中で小さく一人ごちた。

――もしかしなくても、あたしは馬鹿な女かしら?

益体も無い事ばかりを気に留める自分は、確かに馬鹿な女かも知れない。

グラスの氷が融け崩れた程度、氷河大陸の氷が融けきった訳でもあるまい。
琥珀の酒が波を立てた程度、いきなり大津波が襲ってくる訳でもあるまい。
耳に響く音が雑音にしか聞こえない程度、別に耳が聞こえなくなった訳でもあるまい。
在り来たりでない物などこの世界には存在しない。在り来たりと括れるのは、それが全てこの世界に存在しているからだ。

そう思えば、それはいつも通りに看過されて過ぎ去るだけの事象、その程度の事でしか無い。

――酔いが廻っているのよ、

宥める様に自身に呟いた言葉に、は自嘲を浮かべた。
自分に話し掛けるなど、何と無意味な事を。
まして酔いが廻って判断も曖昧な状態だと言うのに、周りの雑音を聞き分ける事も出来無いのに、自身に吐いた言葉を理解出来るとは到底思えない。

――やっぱりあたしは馬鹿なのよ。今限定で。

酔いが廻っているから、と限定条件を付けて自身を嘲笑う。
酔いが廻っているから馬鹿なのか、それとも元々から馬鹿なのか、判然としないと言うのに。

、その辺りで止めておきなさい。身体に毒ですよ」

意味を成さない雑音の中、その男の声は酷くはっきりと、意味を持って脳に響いた。
ただ単純に隣に――とは言え一席空けて、だが――座っているからだろうが、それだけでは無い様な気がする。

傍らに座す男は、涼しい色の髪を――如何言う冗談の心算なのか、くるくるに巻いていた。
古臭い音楽家の様な髪型は、ともすれば笑いの種にでもなりそうだが、如何言う訳か男には良く似合っている。
年の頃は大まかに見積もって――三十そこそこ、と言った程度だろう。時代遅れとも取られかねない黒縁の眼鏡の奥には、柔和な弧を描く眼。
穏健な教師、と言う存在を具現化すればもしかしたらこんな姿になるかも知れない。

男の涼しい声は、酔いが廻った耳に心地良かった。だからこそ、鈍ったの耳でも聞き逃さなかったのかも知れない。
だが、そんな事は如何でも良かった。

「この程度で潰れるほどヤワじゃないわよ…貴方も呑みなさい、アバン」

呑み過ぎた所為か、耳に木霊する自身の声を鬱陶しく思いながら、は水滴の落ちる自分のグラスをぞんざいに男の前に押し遣った。
男は柔和な面差しに苦笑を浮かべやんわりと、だが素早く、押し遣られたグラスをの前に差し戻す。

「もう充分頂きました」
「なによう、あたしの酒が呑めないってのお?」

冗談交じりに何処ぞの呑んだ暮れ親父の様な台詞を吐いて、差し戻されたグラスを再び男の前へと押し戻す。
急激に動かした所為で、グラスの中で揺れる琥珀色はの暴挙に抗議するかの如く大きな波を立てた。
グラスの外に跳ねた僅かなアルコールがの手に落ちたが、揮発度の高い液体は体温に蒸発させられ、直に消えた。

「完全に酔っ払いの台詞ですねえ」

苦笑の滲んだ声が返るが、グラスが再びの前に差し戻される事は無かった。
男が酔っ払いに逆らうのは無益だと判断したか、それともから酒を取り上げる事が出来ればそれで良しと判断したのかは分からなかったが。

「ふん、酔い潰れた女なんざ掃いて捨てるほどいるわよ、世界中にね」

呂律の回らない舌でそれだけ呟いて、はカウンターテーブルに突っ伏した。伸びた髪を纏めておいて良かった。
そうでもなければこのカウンターいっぱいに、潮風と長旅で草臥れた女の黒髪が散った事だろう。それは、かなりぞっとしない光景だったに違いない。

酒に弱い性質では無い――寧ろ笊だの底無しだの言われる程度には強い。
ここまで酔いが廻ったのは久し振りだった。
隣の男の所為で調子が狂っているとしか思えなかったが、それはただの逆恨みに近い。

――安酒で悪酔いなんて、全く情けないわね。

安酒の所為だ。調子に乗って呑み過ぎただけ、ただの悪酔いだ。
だから、今から吐く言葉の全てはただの酔っ払いの妄言だ。酔っ払いの戯言と流されて御仕舞い、だからこそ口に出す事の出来る事。

「恋に破れて酔い潰れ、愛しい恋人に捨てられて酔い潰れ、何処の馬の骨とも知れない男に酔い潰され――そんな女、掃いて捨てるほど居るわよ」

出来るだけ無表情を装って吐き捨てる。
虚ろな横目で盗み見た男の横顔は、最早苦笑など浮かべては居なかった。
何かを考える様な、図星を突かれた様な、全ての言葉を押し殺した様な――その全てが綯い交ぜになれば、こんな表情なのかも知れない。
感情の消えた、横顔。

戯言めいて吐き出した言葉に嘘は無い。
酔い潰れる女など、世界中、それこそ掃いて捨てるほど居る。
だが、選んだその状況は随分範囲が狭い。
意識して選んだのだ、範囲が狭くて当たり前、更に言ってしまえば、隣で無表情にグラスを眺める男を挑発する為だけに選んだ状況だった。

如何いう経緯で男が此処にいるのか、自身、然して詳しく知っている訳では無い。
このバーカウンターで近頃良く隣り合わせに座るだけの仲だ。
顔を合わせる様になってから身の上話をする事は少なくは無かったが、然して知りたい訳でも無かった。ただの世間話の様に互いの事をぽつぽつと話す程度の仲。

旅人の娯楽は意外に少ない。
あの街のあの店では商品を買うなだの、そこの街の娘は美人が多いだの、嘗て世界を救った『勇者』がどこぞの島で爆死しただの、取り止めも無い噂話が実しやかに遣り取りされる――それが気儘な旅の唯一とも言える娯楽だった。

実しやかに其処彼処で耳にする全てを組み立てただけの、ある意味、御粗末な情報。
それは、自身が気儘な旅に身を任せる身であったからこそ推察する事の出来た事だった。
男が嘗ての『勇者』であった事、自らの無事と身分を隠して此処にいる事、嘗ての教え子や知人達に『死』と言う偽の情報を与えた事。
そして、男の教え子や知人の中に、彼と並々ならぬ間柄であった女が居たであろう事は――下世話で無粋には違いないだろうが、想像に難く無い。

男の無表情に似た、全てを消した横顔を眺め、は自身の確信を深くした。
酔っ払いの、ただの妄言でしか無いと放った言葉は存外に深く、彼の心を抉ったらしい。

殊更挑発するような台詞を吐いたのは、ただ男の出方を見たかっただけかも知れない。
飄々と、或いは威風堂々と言った風情で立つ男の表情を崩してみたかっただけの、無意味に等しい挑発。
他人を煽ってその反応を見るなど無様な手は普段は使わないが、今は生憎普段通りでは無い。

――絶賛悪酔い中なのよ。忌々しいったらありゃしない。

八つ当たりと言ってしまえばただの八つ当たりだ。
降って湧いた災難だと、犬に噛まれた様なものだと、男はそう思っているかも知れない。
或いは、それとも。

――図星だったかしらね?

無表情のまま微動だにしない男に顔を向ける。
流石に言い過ぎたか、とフォローの言葉を胸中に並べようとしたが、

「私が貴女を潰した訳じゃなくて、貴女が勝手に潰れたんですよ? 人の所為にするなんて、酷い人ですねえ」

あはは、と快活に笑う男に、一気に気勢が削がれる。
くるり――音にするならそんな感じだった――表情を変えた男は、悪戯小僧の様に目を輝かせての顔を覗き込んだ。

「大体貴女が悪いんでしょう? 安酒は呑まないのが信条じゃ無かったんですか?」
「あたしだって偶には安酒呑むわよ、こんな日ぐらい」
「おや、誰かに振られでもしましたか? 失恋して呑み潰れ、まあ貴女らしいですけどね」

にこにこと笑う男に、済し崩しな心地では憮然とする。
男が話題を変えたいのなら、それに乗ってやるのが大人の女としての度量だ。
別にやましい事がある訳でも無いが、らしくない手を使って男を煽った挙句にフォローまで入れようとしたのだ。
それを汲み取ってくれたらしい男に、これ以上の無粋な詮索はするべきでは無い。

「そーよ、振られたわよ勝利の女神サマに、しかも盛大にね。全く、あたしとした事が何であそこで降りなかったのかしら」

態と大袈裟に頭を振って溜息を吐く。
芝居が掛かったの溜息に、男は更にからからと笑った。

「貴女があそこで降りなかったら、ディーラーが泣いたでしょうよ」
「ふざけなでよ、ダブルアップ何回目だったと思ってるの? 安酒で自棄酒するぐらい大目に見なさいよ」
「悪酔いするから止めときなさいって言ったのに」
「仕方無いでしょ、財布が泣き喚いて大洪水だったんだから」
「いやしかし、ロイヤルストレートなんて初めて拝ませて頂きましたよ。ポーカー強いんですね、
「結局それで負けてりゃ世話無いわ。貴方のスリーセブン、無駄にしちゃったわねえ」
「御望みとあれば、いつでも出して差し上げますよ」
「嫌味ねえ。隣のスロット打ってたオッサン、凄い顔で貴方を見てたわよ。何て言うの、視線で人が殺せそうな感じ?」
「動体視力の成せる業ですよ。ま、私に掛かればあれぐらい、出せて当然ってとこですねえ」
「うっわ、嫌味。貴方、良い性格してるわー。ほんっと性質悪いったら無いわ」

けたけたと二人して笑い合う。
随分長い時間は呑んでいたが、隣で笑う男とて大して変わらない量を呑んでいたのだ。
傍から見れば、『カジノで大負けした酔っ払い』にしか見えなかっただろう。

だが、それはそれで良かったのかも知れない。
片や嘗ての『勇者』、片や巷では名の知れた『海賊の女頭領』だ。
その素性を知る者が見れば、さぞや奇怪な組み合わせに映っただろう。
だが、カジノで勝っただの負けただのを繰り返して喧騒に紛れる人々の中に、達の素性を知る者は無い。
例え知っていたとしても、誰も何も言わない。
それが、大人の遊び場でのルールだ――無粋で下世話な真似等する様な場所では無い。

――やっぱりあたしは馬鹿なのよ。

すっかり軽くなった財布を思い遣り、は自嘲する。
下世話な詮索で掻き回そうとしたを怒鳴るでも無く挑発に乗るでも無く、受け流した――尤も、が受け流させてやっただけだが――男は楽しげに『フォーカードも久々に見ましたねえ』等と呟いている。
子供の様に笑う男の存外に整った横顔を眺め、はらしくなく頬が緩むのを自覚する。

――いやねえ…。惚れそうだわ、アバン。

胸中で嘯くが、他人の男を取る趣味は無い。
無粋を通り越して悪趣味だ。如何に悪酔いして潰れようと、そこまで堕ちる心算は毛頭無い。
まして眼鏡のカール男なんて論外だ、と一瞬脳裏を過ぎった馬鹿馬鹿しいにも程がある自身の、男への感情を一蹴する。
職業柄、『先生』と呼ばれる凡そ全ての人種はの最も苦手とする類だったから、と云うのもあったのだろうが。

「呑み足りてないのかしらねえ…」

男には聞こえない様に、小さく呟く。
悪酔いしているから馬鹿な事を思いついたのかも知れないが、は単純な方向へと思考を切り替えた。
もう少し呑めば、束の間でも過ぎった馬鹿馬鹿しい感情を押し流せると信じて。

近く遠く、カジノ付きの楽団が奏でる『蛍の光』を聞き流しながら――。
はグラスを片付け始めたバーテンに、彼と同じものをもう一杯頂戴、と言い付けた。






誰が為の夜想曲?


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ふおおおおおぉぉぉぉ!!
自家発電じゃないアバン夢を初めて拝んだぁーー!!
この感動と興奮をエネルギーに換えたら宇宙開闢できると豪語しましたが、かなりの勢いで本気です
だってハァハァ、大人の駆け引きにドキドキするわ、夢主さんの女っぷりに鼻血が出そうだわ、
私の中の上半期流行語大賞を総ナメだわ、(暫定第一位「アバン爆死」第二位「ツンツンロンデレ」
もうね、柚原さん、忠実な犬を一匹いかがですかワンワン?(ヤメレ)
神々に戦いを挑んで笑って死ぬ青色半魔にも負けない忠誠心を見せようと思いますワン!

6万HITのお祝いに頂いたこの素敵なプレゼント。 胸の奥に厳重に仕舞い込みますハァハァ!
本当にありがとうございました!!!