霧の向こう 1
鍋に入れた香草の香りが立ち上り、の鼻先をくすぐった。腸詰の臭みを消して、きっと美味しくなるはずだ。は味見する前からスープの完成の出来を想像して頬を緩める。木の杓をゆっくりと回した。
「もう少しトマト入れようかな」
確かもう一つ余っていたはずだ、は鍋をかき混ぜながら籠を覗き込もうとした。
「手伝いますよ、」
降ってきた声に顔を上げると、既に手袋を外して腕まくりをしているアバンと目が合った。ポップの特訓に付きっきりだったはずのアバンが来たので、はおや、と目を丸くする。
「ポップには今、岩を抱えての瞑想をさせていますから」
先に答えを寄越したアバンには笑う。そしてパプニカトマトを剥いてくれますか、とお願いした。
パプニカトマトはホルキア大陸の山岳地帯に生っており、胡桃のように固い殻に覆われている変わったトマトだ。殻を割れば中から赤い実を覗かせる。その味と見た目は、が元の世界で食べていたトマトと変わりは無い。
アバンはナイフを取り出すと、慣れたように殻に刃を刺し込み、そして軽くねじる。あっという間に割られた殻から、真っ赤なトマトが姿を現した。は既に濡れていた手を差し出し、トマトを受け取ろうとする。アバンはその手に一瞬視線を走らしたが、すぐに頬の肉をぐ、と上げた。
「私がやりますよ」
出来るだけ荷物を持たないようにしている旅の中では、まな板など有りはしない。アバンはこれまた手慣れたように、手の平の上でトマトを八つに切り分けた。そして鍋へと入れる。手にはトマトの果汁が滴っている。
遠くからポップの悲鳴のような叫び声が上がる。
「やれやれ、失敗したかな。すみません、。あとはよろしくお願いします」
「いいえ、手伝ってくれてありがとうございます。ほら、早くしないとポップが潰れちゃいますよ」
それは大変だ、アバンはそう言って駆け出して行った。
は今入れたトマトにも火が通るのを、鍋をかき回しながら待つ。ぐるぐる、ぐるぐる。かき混ぜすぎて、トマトの実が崩れてしまいそうになっているのも気付かない。
(やっぱり、変だ)
鍋の中を見つめながら、は今感じた違和感に意識を巡らせた。
アバンは自分を避けている。触れないように、意識している。
今だって、たかだか一つのトマトの為に手を汚す必要はなかったのだ。の手は既に幾つものトマトを切っていて汚れている。手から手へ渡せば済むのに、わざわざ手を汚す手間を取ってまで、の手に触れる事を避けた。の手伝いをしてくれた、と好意的に考えたとしても、あまりにも割に合わない行動に思う。あの刹那の逡巡から捉えるのはそんな違和感だった。そういえば特訓中もなるたけ触れないようにしていた。動きを口で説明したり、剣を通して指導されていた気がする。
気が付いてしまえばあれもこれもと、おかしな違和感はそこらじゅうにあったとは思った。同じ場所に居合わせていたとしても、きっと他の誰も気付かないであろう、ほんの少しの後退。当人のですら、それに気付いたのはここ数日だった。
何故そんな事をするのかを考えた時、最初に思い当たってしまい、そして正解であろう事由がキン、と高い音を立てて浮かぶ。それを思い起こすと、は胸に少しの痛みを感じる。
きっと、あの日からずっとこうした気遣いをしていたのだろう。それがアバンの身から出た錆であろうと、ほんの少しの申し訳なさと、寂しさを感じた。そしてそれくらい当然だと憤る事ももう無い。
では何故、自分はそう思うようになったのか。他人に気取らせるヘマなど決してしない人のはずだ。何故、自分はそんな小さな違和感に気付く事が出来たのか。
自分の気付かない所で緩やかに気持ちが変移していく。胸に穿たれたこの空洞。その深部を覗き込もうと縁に身を置くと、どうしてこんなに指先が痺れるんだろう。どうしてこんなに、胸が震えるんだろう……。
ぐるぐる、ぐるぐる。
鍋の中のスープが終わりのない螺旋を描いている。
西の茜の空が濃藍色に変わった頃。
早めの夕食が終わり、ポップとは使った食器を水に漬けている。アバンは冷え込みそうな今晩の天候に、今の内に身体を温めておこうと、水の入った小鍋を焚き火に掛けた。たまには紅茶を淹れようか。二人に秘蔵の茶葉を振る舞ってやろうと、リュックサックを漁っていた時だった。
「おー、火だ! 暖かそうだ!」
人声に振り向いて見ると、冒険者らしき様相の三人組が木々の合間から姿を現した。戦士と思われる男は鉄兜から覗く人懐っこそうな笑顔をアバンたち三人に見せる。
「すまんが、俺たちにも火を貸してくれないか?」
「どうぞ。構いませんよ」
アバンは笑顔で彼らを迎え入れた。ポップとは座っていた腰を上げて席を詰め、三人が火に向かえるようにスペースを空けてやった。
こうして火を貸すのも旅人の間では珍しい事ではなかった。一から焚き火を熾すのも一苦労であったし、火を囲んで同業者と情報を交わす事も何かと必要だ。それに街灯もないこの世界では、山奥の夜など誰でも不安になるものだ。出来るだけ人数がいた方が、その不安も少なくなる。彼らも慣れたように席を頂戴し、焚き火に手をかざして暖を取った。
「今日は冷えるな。月もないし、もしアンタ達を見つけてなかったら俺たち三人は抱き合って休むところだったよ!」
男戦士の快活そうな笑い声が上がった。そんなのアタシは御免だよ、そう言った女魔法使いは呆れたように嘆息を吐き、尖った帽子を脱いで赤毛の髪をかき上げた。なかなかの美人で、ポップは既に鼻の下を伸ばしている。大きく開いた魅惑の胸元に視線は釘付けだ。
「オレも御免だ。恩に着る」
武骨そうな男武闘家は言葉少なにアバンの方を見やる。アバンはいえいえ、と微笑み返した。するとこの男武闘家は一呼吸の合間もなく、素早く、しかも無駄のない動きで食事の準備を始めた。せっかちな奴なんだ、という男戦士の言葉を余所に荷物袋を漁る。
素早く取り出したパンを火で炙ると、チーズを切って枝に刺し、これも軽く炙る。トロリとしかけた絶妙のタイミングで火から外すと、パンの上に乗せた。そして手慣れたように口に放り込む。
子供たちは思わず見入ってしまった。流れるような所作だという事もあったが、そのパンの何と美味しそうなことか。普段、腕に覚えのあるアバンの食事を堪能しているからといっても、やはり人の食事は美味そうに見えるものらしい。思わず口が開いてしまうほどのみっともなさに気付かぬまま、その動きを目で追っていた。アバンは羞恥に頭を抱えた。
「君たちも食べるか?」
視線に気付いた男武闘家は、これまた手早く調理し、二人に手渡した。その早さに目を丸くしながら、二人はお礼を言って頬張った。チーズの香りは独特だったけど、とても美味しかった。伸びたチーズをすすりながら、思わず笑みがこぼれる。
「それじゃあ、こちら様へのお礼はコレでいかがかしら?」
女魔法使いは褐色の瓶を軽く掲げると、その赤い唇に妖しげに弧を描かせる。アバンが拝辞しようとする隙も与えず、押し付けた木製のカップに並々と、これまた褐色の液体を注いだ。
「こ、こんなに飲めませんよ」
「あら。寒い夜はコレが一番じゃなくて? まぁ他にもイイ方法はあるけど、ね?」
上目遣いで擦り寄ってくる熱っぽさに、アバンは乾いた笑いしか出ない。こんな風に急接近される事など若い頃は何度かあったが、慣れているほどのものでもない。困惑が顔に出ないよう、失礼に当たらないように恭しく杯を頂戴する。強いのね、と笑って見せた八重歯が、肉感的な体とは裏腹にあどけなさを感じさせ、アバンは思わず視線を外した。
無意識なのか偶然なのか、外した先にいたのはだった。
だがカチリ、と合った視線に、は思わず乱暴に外してしまう。アバンは背けられてしまったその表情が気に掛かったが、二杯目も溢れんばかりに注がれそうになり、それをとどめるのに気が移ってしまった。ゆらゆらとカップの表面を張る褐色の水面をすすってしまわないといけない。飲料を粗末に出来ないのは、癖のように旅人として身に染み込んでいた。
きゃっきゃっ、と上がる笑い声がの頭のてっぺんに響いた。なんだかドロドロと嫌な色と質感を持った感情が、腹の底から沸いて来るのをは感じる。
「じゃあ俺からはこれだ」
男戦士がそう言って取り出したのはゴールド硬貨。たちまち男戦士の両手を生き物のように動き回ると、手の平から姿を消したり、はたまたとんでもない所から飛び出してきたりした。次々に魅せられる奇術に、ポップは目を輝かせて喜んでいる。もすごいすごい、と手を叩いて喜んだ。だが意識は背部に飛んだまま。何を話しているのか話の内容など頭に入ってこないが、楽しげに盛り上がる男と女の声が後頭部にねっとりと張り付く気がした。それはぐるぐるとの頭を揺らし、耐えるように、誤魔化すように、目を細めて無理やり笑った。コインが五枚になって二人はワッと沸いたが、は元が何枚だったのかも憶えていなかった。
小さな宴の喧騒も届かないこの水場。
周囲は漆黒の闇と寒さに包まれていたが、はそんなものを気にする事もなく、水溜りに革袋を沈めていた。水を汲んでくると言って出てきたのだ、水がどんなに冷たかろうが、こうして革袋に水を溜めなくてはならない。だがこれも今のには何の痛覚も与えられはしない。
あの二人を見ていたら言い知れぬ不安と苛立ちを覚え、居ても立ってもいられなかった。交わしていた視線も笑顔も杯のやり取りも、自分には得難いものなのに、彼女は容易に手に入れてしまった。そこから目を背けるように出てきたものの一向に収まる気配がない。沸々と沸き起こるタールのような感情。粘着質のあぶくが半円形のままゆっくり、ゆっくりと大きくなり、やがてパチンと弾ける。跳ねた真っ黒なタールがの胸の内に染みを作り出す。は自分の中に生まれているこの澱んだ気持ちが嫌で嫌で仕方がない。自分がどんどん醜い人間になっていくようで、これ以上頭を動かしたくなかった。もう早く寝てしまいたい。
「今夜は本当に冷えるわね」
驚愕に身体が跳ね、手元の水がパシャリと鳴る。やけにその音が響いてしまったようで、は一度は上げた顔を羞恥から俯かせた。
女魔法使いはこの暗がりでも分かるほど、身体をバラ色に染めていた。が革袋を沈めている横に来ると、湧き出ている水を両手で掬い、口元に運んだ。アバンに酌をしていたこの指も綺麗だ。
「ああ、冷たくて美味しい」
「待っていて下されば、すぐにお持ちしましたのに」
「いいのよ、飲み過ぎちゃったから少し酔いを醒ましたかったし」
うふふ、と何かを思い出すかのような笑い声をの横で上げた。は依然、この池のような水溜りに沈めている革袋だけを注視している。
「イイ男と飲むとお酒も美味しくなって、つい飲みすぎちゃうのよねぇ」
「そうですか」
こぽこぽ、こぽこぽ。
「彼って格好は奇天烈だけど、きっと化けるタイプね。私、審美眼にはちょっとした自信を持ってるのよ。見て、このブローチ。露天商で20Gで買ったんだけど、後々鑑定士に見てもらったら、実は名のある細工師の作品だったんですって! 5000Gで譲ってくれって頭を下げられたのよ!」
「そう。凄いわ」
こぽこぽ、こぽこぽ。
「それにカール出身なんですってね。王都からは離れているけども、私もカールの出身なのよ。郷里話で盛り上がっちゃたわ!」
己の事をあまり話したがらないアバンが、自分にようやく故郷の話をしたのは出会ってから何ヶ月も過ぎた頃なのに……。は話してくれた事だけでも嬉しいと、仄かな喜びと優越感を持っていたのだが、それがなんにも特別な事でない事を知って愕然とした。頼りなさ気だが唯一の拠り所にしていた足場が崩れていくような絶望。ひゅう、と鋭い音を立てて、色んなものが横をすり抜けていく気がした。
これは、嫉妬だ。ずっと目を背けていたが、頭を掴まれ眼前に突きつけられた。
アバンの元を逃げ出し、そしてすぐに連れ帰られたあの日、想いを打ち明けられた。それがあったからこそ戻れたと言っても過言ではない。だがあれから二ヶ月経ち、元の心地よい空気に浸ろうとする事に躍起になって、お互いに踏み込む事も、振り返る事もしなかった。禁忌に触れないように、距離を測りながら元の空気を掴みあぐねている。元通りに戻れるはずがないのに。
触れないようにしながらも、答えはすぐそこにあるのを知っている。自分の中で劇的に変わった思いの正体が何なのか、アバンは何を考えているのか。そんな事で思い悩んでいるのは自分だけのような気がする。アバンは何も言わないし、美女に囲まれて目尻を下げている。一人で舞い上がってバカみたいだ。情けなくて涙も出て来ない。は革袋から上がる空気の泡を、ただ呆然と見つめるしか出来ない。
女魔法使いは髪をかき上げると、紅い唇をそっとの耳元に寄せた。
「――ちょっと惜しいけど、大好きなセンセイを取ったりしないから安心おしよ、お嬢ちゃん?」
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今アバン一行は、高山地帯にある村に逗留している。
あの三人組と分かれると、休息と物資の購入の為にこの村に向かった。さほど大きくもないが店や宿は一通り揃っているので、このホルキア大陸の山を渡る旅人は大いに助けられている要地だ。ここに留まりながら弟子二人は修行を続けている。
修行の時間は決まっていたが、朝から晩までみっちりスケジュールを組んだスペシャルハードコースではないし、その他の時間は割りと自由な時間を各々過ごしていた。アバンは今、写本しているし、ポップはいつもと変わらず昼寝を貪っている。そしてというと、路銀稼ぎにアルバイトを探していた。
アルバイトと言っても、子供だけで本格的に仕事を請け負う事をアバンは善しとしない事を知っているは、あくまで小遣い稼ぎ、路銀の足しになるぐらいで考えている。子供二人を養う事は大変だと思うが、身の程を過ぎた気遣いは逆にアバンに恥をかかせる事になると、過去にポップと相談した。農作業を手伝って食料を分けてもらったり、宿代をまけてもらったりがほとんどだ。食い扶持の足しに少しでもなればと、こうして村の中を訪ね歩いている。そしてようやくこの道具屋で、仕事を分けてもらえる事になった。
「じゃあ、注文されていた荷物をこの先に住んでるカッツおじいさんに届けてくれる?」
「はい。わかりました!」
「ええと、あと、まんげつそうね。どこにあるのかしら」
道具屋の女性はメモを覗き込みながら品物をカゴに入れていく。が、一つ一つの品物を探すのに足が止まってしまう。細い柳眉を歪ませて、狭い店内を行ったり来たり。
「ごめんなさいね。私、この道具屋にお嫁に来てから間もなくて。まだ勝手が分かってないのよ。主人はもうすぐ戻ってくると思うけど、仕入れで出掛けているし」
「そうだったんですか。新婚さんかぁ」
ほんのり頬を染めて笑顔を綻ばせたに、女主人も恥ずかしそうに笑った。
「うふふ。大変だけど、好きな人とずっと居られるのって嬉しい事ね」
も人並みに夢や希望を持っている。お伽話のようにずっと遠くで起きているお話を聞いているようで、聞くだけでふわふわとした夢心地を感じる。羨望と尊敬で女主人を見る視線も柔らかくなった。少女の喜び様はくすぐったいほどで、女主人は微笑ましくなった。
「素敵。すごく羨ましいです!」
「あら、あなたも好きな人がいるのね?」
つんざくような音を立ての身体に電流が走った気がする。
村全体が急に薄暗くなってきた。アバンは写本する手元が翳ってきた所で、本を閉じた。
宿を出て通りを歩きながら弟子二人を探す。ポップはちょうど宿に向かっている所だったらしく、すぐに会う事が出来た。の居場所を尋ねたが知らない、という。その時、湿った空気が吹き上がり、途端にぞくりと二人の身体を冷やす。天候が崩れるかもしれない、二人は顔を合わせてを探す事にした。
四件目になる道具屋に着いた時、大きな荷物を抱えた青年が店の中に入っていくのが見えた。アバンとポップの二人はその後を追って店に入っていく。
「いらっしゃい」
荷物を降ろしたばかりの青年がそう言って二人を迎えた。どうやら店主だったらしい。妻君と思われる女性も続けていらっしゃいませ、と微笑んだ。
「すみません。一つお尋ねしますが、黒髪の女の子を見掛けませんでしたか?」
妻君はあら、とそのくるりとした瞳を覗かせる。
「その娘だったらおつかいを頼んだわ」
「おつかい、ですか?」
「この山のもう少し上に住んでいる人の所へ、品物を届けてもらっているのよ」
妻のその言葉に、店主は目を剥き驚いた。
「お、おい! こんな天気の中出したのか? 今日は南向きの風だったから、これから濃霧が発生するぞ! 山歩きなんてとてもじゃないがムリだ!」
店内が一瞬にして冷え込んだ。さっきの吹き上げた風のようだ。
「そ、そんな! ごめんなさい……! どうしよう……!」
手に顔を挟み込み、可哀想なくらい慌てている妻に、大きな声を上げて悪かったと主人は荷物を超えて肩を抱いてやった。だが妻はもう一度アバンの顔を見上げる。
「心配いりません。私が迎えに行ってきます」
アバンは眼鏡の奥を細めて、妻君に応えた。
「先生、おれも行くよ!」
「いいえポップ。あなたは残っていなさい。大丈夫、必ず連れて帰りますよ」
アバンは不安げに見上げてくるポップの頭を撫でてやった。必ずだよ、ポップはそう言って、山に入っていくアバンの背をいつまでも見つめていた。