プロローグ
「ありがとう。もうここまでで構いません」
「そ、そうかい」
上から心底安堵した声が降ってきた。
誰もが見上げる身の丈は背を丸めていて、本来の高さと威勢を窺い知れず、眉根をひそめて怯えている表情はその体躯とは似つかわしくないものであった。それは酷く弱々しく滑稽に見えた。だがそれも仕方がない。もう水平線には、かの有名な怪物島がその姿を怪しく浮き立たせていたのだから。
「すまねぇな。王家直々の勅命だし、もっと近くまで送ってやりたいのは山々なんだが……、島付近の海中にも恐ろしいモンスターがいるって話は船乗りの間じゃ知らない者はいねぇぐらいだからな。最近、モンスターが暴れているってぇ物騒な話も多いし……好き好んであの島に向かう奴を、あんたら以外に見た事ねぇ。おっと、あんたらも王家からお役目を担ってるんだったな、悪りぃ悪りぃ、好き好んでじゃなかった、ああそりゃそうだ、うんうん……」
大きな船乗りの男は小舟を降ろす作業をしながらその大きな口を良く回した。まるで視界に入る島から無理矢理意識を遠ざけるかのように。
「いいえ。無理を聞いて船を出して下さって、ありがとうございました。一日でも早く着きたかったので、本当に助かりました」
派手ないでたちをしている空色の髪の男は、まさに空のように明るい笑顔を船乗りの男に見せた。それがあまりにも清々しくて、おどおどと柄にもなく怯えている自分が急に気恥ずかしくなった。この男はあの怪物島の恐ろしさを知らなくて、こんな余裕を持っているのだろうか。だがその笑顔は考え無しの底抜けたものでもなく、ゆっくりと煙草をふかすように悠然と構える、全てを知りきった隠遁した老賢人のもののようだった。
ゆらり、ゆらりと。
不思議な笑い方をする男だ。船乗りはそう思った。
小舟が海面に着水されると、空色の男は脇を振り返る。
「ポップ、出発しますから彼女を呼んできなさい」
「ハイ、アバン先生」
男の側に控えていた少年は、ぴょこん、と体を揺らし、師の言いつけを速やかに守らんと甲板を駆け出す。
さほど大きくない商船だ。少し大きな声を出せば船中に届くであろうと踏んで、ポップは船の中央、船室の入り口を背に思いきり息を吸い込んだ。
「おぉーい! 出発だぞー! ー!!」
「ここよ」
思わぬ方向から声がした。
ポップは振り返り、空を仰ぐ。
。
そう呼ばれた少女は黒髪を潮風にたなびかせ、船室の天井部分に座っていた。大きな黒ダイヤの瞳が見つめる先は足元のポップではなく、真っ直ぐ怪物島・デルムリン島に向かって伸びている。
「そんなところで何してるんだよ」
「なんだか、落ち着かなくて……」
依然、島から視線を外さずに、は呟いた。
緊張ではない。
不安ではない。
だが先刻から胸の奥底で芽吹くように何かが目を覚ましたのを感じ、居ても立ってもいられなくなった。体が粟立つのでもなく、鼓動を速めるのでもなく、ただ静かに水面が揺れて波紋が広がるような感覚だった。
あの島で何かあるんだろうか。
少女は表情もなく見つめていた顔付きを、微かに曇らせた。
風が、吹く。
水面を揺らす運命の風が、幾多の人々を、そして少女を、引き寄せようと。
風が、吹く。
少女のその小さな背を、舞台へと押し出すように。