デルムリン島1
「だあぁーー!!」
その大音量の掛け声と石がぶつかり合うけたたましい音に、ポップは驚き、跳ね起きた。何事かと見れば、昨日弟弟子になったばかりの少年が、その小さな体を最大限に駆使して、地獄の早朝ジョギングに懸命に挑んでいる。ポップは音の正体が分かるや、少年を同情した。
「あーあ。あいつしぼられてんなぁ……。だからおれは止せって言ったんだ」
「あら、頑張るって言うんだからいいじゃない」
「うわあぁ!!」
再び寝床に体を預けようとした体を驚愕に震えさせた。振り向けば黒髪の少女がすぐ側でニコニコと、走り去っていったダイ少年の背を微笑ましく見送っている。
「おっ、おっ、おっ……驚かすなよ! !!」
「そんなに驚かなくてもいいのに。ハイ、朝ご飯」
は笑いながらそう言って、腕の中に抱えた果実の一つを取ってポップに寄越した。見た事のない果実だ。だがその真っ赤な色は起き抜けの空きっ腹を刺激し、ぐぅとひとつ鳴らした。渋々とかじれば瑞々しい果汁がポップの喉を潤す。一連の驚きとその甘酸っぱさで、眠気は完全に吹き飛んでしまった。
「朝も早くからご苦労なこったよな。見たか、あの石? スペシャルハードコースなんて人間がやるもんじゃないぜ? ……ま、先生の目がアイツにいってるから、おれは助かっちゃうけどさ!」
そう言ってまた果実に何度かかぶりつくと、たちまち頬をリスのように膨らませた。それも見る間に嚥下すると、ポップは神妙な顔付きで手の中の果実を見下ろした。
「……でも、本当に一週間で勇者になれんのかな?」
「アバン先生はその気よ」
はポップの隣に腰を下ろし、そこから臨める浜を見やった。浜にはジョギングから戻るダイを待つべく、アバンが腕を組んで立っているのが見える。はそれに薄く笑うと、採って来た果実に自分も口をつけて朝食にした。
「はりきってんなぁ」
「先生も同じだけ早起きして修行に付き添ってるんですもの。元気よねぇ」
「あの人の元気さは今に始まった事じゃねぇよ」
「ま、ね」
一年もの同行が二人の言葉に重みを加えた。しみじみと師の素行の奇抜さを改めて反芻する。
魔王の復活。
それは世界を包む暗雲となって人々の平和の上へ澱んだ影を落とす。
その闇を払う救世の勇者を育てるべく、勇者の家庭教師と称するアバンと、その弟子二人がこのデルムリン島に辿り着いた。自分達の師が一国の王家から勇者育成の命を受けた事も、見た事のない呪文で一つの島を丸ごと邪気から払ってしまう術を持っていることも、さしたる驚きは受けなかった。ありとあらゆる驚きと発見はこの一年で数え切れないほど与えてもらっていた。幻と言われる竜変化呪文を使ったかと思えばそのまま追い駆け回されたり、一般人ではお目にかかることもないはずの王家の紋の入った書状をいくつも持っていたり、その武芸の秀でる事、他の追随を許さない実力の深さを垣間見る事も、この師の側に居れば次々と起こるイベントの一つに過ぎなかった。
この勇者育成のイベントが終われば、また別の驚きに満ちた旅をしに行く事になるだろう。彼らはそう思っていた。少なくともポップは永遠に続くこの安寧の日々を、アバンと少女の側で過ごせると本気で信じていた。
「さて、と」
は堪能した果実の芯を草陰に投げ入れると、地面に転がしておいた果実をまた手に取って腰を上げた。どうしたんだ、という顔のポップに、は先に答えを寄越す。
「朝ご飯。ダイが戻ってきたらあげるの。それまで私も魔法の修行でもしてようかな」
「げっ! マジでかよ!?」
「ポップもやったら?」
「おっ、おれはいいよ!」
ポップは大げさなほどに手を振り、断固拒否する。染み付いた修行への拒否反応が、脊髄反射的に示された。だがはそんなポップに、立ち去り際、振り向いてニヤリと笑いこう言った。
「言ったでしょう? 『先生はその気だ』って」
浜に向かっていくの背中を、ただ呆然と見つめる。その言葉の意味が内に沁み込む前に、その背中は見えなくなった。
浜に着くと、アバンの姿は無い。ぐるりと見渡しても、あの派手な色使いは見当たらない。がおや、と面食らっていると、先ほどのけたたましいパレードが近付いてきた。
浜に滑り込むようにして着いたダイは、肩をものすごい勢いで上げ下げをして全身で息を整えようとしていた。
「ハァハァ! つ……着い、ハァハァ……た……! ハァハァ!」
「ダイ、平気?」
返事も出来なさそうだが、は一応聞いてみる。水でも汲んできてあげようか、そう思って屈んでダイの様子を窺っていた顔を上げた時だった。
またも何かが近付いてくる。
地響きのような足音が徐々にこの浜に向かっているのが分かる。とダイはその音のする方向を言葉も無く凝視した。
すると坂道で切れている地平から石の頭が顔を覗かせた。石が歩くのか? 二人はその奇妙さに目をみはった。地響きが聞こえるたびにその頭はさらに覗かせ、そのシルエットを露わにしていく。一歩一歩と近付くと共に、それは石ではなく大岩だと気付いた。ダイは乱れた呼吸も忘れて息を呑んだ。
迫り来る大岩がその全容を現したぐらいに、地平線から空色の髪と黒縁眼鏡がひょっこりと覗かせた。地響きと共にまた一歩近付くと、大岩が歩いてきたのではなく、昨日突然現れたこの異彩を放つ『勇者の家庭教師』だという男が運んできたのが分かった。驚くほど軽々と持ち運ぶその動きは何かの冗談のようであったが、アバンは顔色一つ変えずに、とうとうその大岩を浜にまで運び終えてしまった。
ダイは何かの確認のように無言でへ振り返る。だがは何も言ってやれない。肩をすくめてその驚きに同意してやるしかなかった。
そして涼しげな顔で放つ言葉で、さらにダイを驚かせた。
「ダイ君、この岩を剣で割っちゃってください」
「ええっ!? こんなにデッカイ岩を!?」
ダイは戸惑ったが、アバンの当然といった流れに逆らえず課題に取り組むことになった。
”伝説の名剣”は折ってしまったが、自前のナイフで果敢に大岩を攻める。けれども、その岩肌を傷付けるのと疲れが増すばかりで、課題となる”斬る”事はちっとも成功しない。
「あのね、ダイ……」
力み過ぎよ、と声を掛けようとしたは、肩に重みを感じた。振り向けばアバンは薄く笑っている。陽光に反射して眼鏡が光ってしまい、その奥にどんな目をしていたかは見えなかったが、何を言わんとしているかはは瞬時に悟った。
(この強行スケジュールの中、それも自分で気付けっていうの!?)
しぼられてる……ポップの見解はあながち間違ってはいなかったようだ。はポップと同じくダイを同情し、乾いた笑いしか出せなかった。
昼ご飯を食べ終え、弟子三人は食後の談笑に華を咲かせていた。昼頃には満身創痍になってるかと思われたダイは、思いのほか元気だった。
「ダイ、あなたタフねー」
「オレ、これだけが取り柄だもん」
そう言って笑いながら水の入った木椀に口を付ける。すっかり飲み干すと、ダイはにずっと気になっていた事を尋ねた。
「そういえばさ、って珍しい名前だよね」
「ああ、うん……えっと」
どう説明したらいいものかと言葉を選んでいると、隣のポップが口を開いた。
「コイツ、この世界のモンじゃないんだ」
「え!?」
ダイは目を丸くして驚いて見せると、少し恥ずかしげに笑って、次はが口を開いた。
「私……この世界とは違う世界に住んでいたの。どうしてかは分からないけどある日突然、ここに飛ばされてしまってね。帰り方も分からないから、故あってアバン先生の下に置いて頂いてるのよ」
「一年ぐらい前だったかな。突如、空から降って沸いたんだぜ」
「人を虫みたく言わないで頂戴」
軽く睨みつけるとポップは悪戯っぽく笑う。その横でダイは納得したかのように小さく何度も頷いた。
「ふーん、不思議な事もあるもんだね」
「信じてくれるの?」
「うん。だって二人がそう言うんだし」
疑いの色を全く宿していない事は純真な瞳を見ればすぐ分かる。は思わず口を開けたままにしてしまった。
「この目で見たおれでさえ信じられねぇような事なのに、どうしたらそこまで信じきれるかね。無垢ってスゴイのな」
「むく?」
初めて聞いた言葉にダイは首をかしげる。
「バカって事だよ」
「ポップ!!」
鈍い音が辺りに響き渡った。ポップは頭を抱え、痛みに悶絶している。しばらく声も出ず呻いていたが、ようやく声を絞り出した。
「……ッてえ!! 何すんだ、コノヤロー!!」
が射抜くような視線をッポップに向けると、うぐ、と変な声を出してポップは押し黙ってしまった。仲良いんだか悪いんだか分からないな、と思ったダイに向けられたの顔は笑顔だ。
「ゴメンね、ダイ。コイツ口は悪いけど、そんなんじゃ悪い奴に騙されちゃうんじゃないかって心配してるのよ」
「へっ」
ポップは頭を押さえながらそっぽを向く。
「大丈夫だよ、おれ、ちゃんと分かってるもん」
底抜けに明るい笑顔を見せられてはまた唖然としてしまいそうだったが、すぐにこの小さな少年の純真さが愛しく思えてきた。保護欲を駆り立てる愛くるしい笑顔に、思わず自分も笑い出してしまう。不思議な子だなぁ、とは思った。
「うふふ、ありがとう。信じてくれて、嬉しいわ」
へへへ、とダイは笑った。
「おや、楽しそうですね」
アバンはそう言いながらウサギにかたどった果実を皿に乗せて輪に顔を出す。ダイとは、今共有した笑いを自分達だけで取っておくかのように、アバンには教えずにまた顔を寄せ合って笑った。
スペシャルハードコースの一日目が終わった。
満足気な寝顔で泥のように眠るダイを、ブラスは微笑ましく見守る。いつもは文句と諦めで終わってしまう修行を、こんなに意気盛んで、しかも楽しそうにするダイを初めて見たような気がする。魔法使いにはさせられなかった若干の寂しさはあるが、この寝顔を見ればそんなものは彼方に吹き飛んでしまった。子の頑張る姿や成長が見て取れるのは何よりの喜びであったし、それを知る事が出来たこの十数年がブラスにとってどんなに暖かなものか、今更ながら知った。
「それじゃあ、ブラスさん」
水の張ったボウルとタオルを持って、は小屋の入り口をくぐろうとした。
「ああ、ありがとうちゃん。助かったよ。おやすみ」
「どういたしまして。おやすみなさい」
ブラスは笑顔を残して去っていった少女の背中を見送る。そしてその少女ともう一人の少年を伴って、嵐のようにやってきた只者ではない男、アバンへと思いを馳せた。
確実に何かが変わっていく。
変化のない島の生活が、世界が、賑やかな音を立てて変わっていく。
その中心に愛する我が子がいるだろう事は、この時のブラスには想像が出来なかったが、古びた硬い胸に小さな不安が宿るのを感じざるを得なかった。
「先生、本当にこのままスペシャルハードコースを続けるんですか?」
ポップは寝床に入ってきた師へ尋ねる。夕方からずっと気になっていた事だ。
「ええ、モチロン。彼には友達を救うという大きな目標がありますからね、上達も早いですよ」
ポップは面白くない。今まで上達が早いなんて自分は言われた事がないのに、ダイは尊敬する師の賛辞をたった一日で受けてしまった。同じく修行を共にするには遅れをとっている事は自覚していたが、女のには遠慮してやっているという思いがあった。だが、同じ年頃の男であるダイの成長は、ポップの自尊心を大いに脅かしている。には感じなかった焦りを、今日初めて感じたのだ。
「あなたもいつでも、朝夕の特訓に加わっていいんですからね」
それも全て見透かされているんだろう。だが素直になれないポップは興味無いと言わんばかりに、寝床に潜り込む。バレているのも分かっていながら、寝たフリでアバンの話を遮断してやった。困った子だ、と笑っているのも、背中越しに分かっている。
そこへが一番遅れて寝床にやってきた。アバンは隣のに顔だけを横に寄越す。
「どうしたんですか?」
「ダイったら汗も落とさず倒れ込んじゃったでしょう? 今、簡単にですけど拭いてあげてきました」
「優しいですね」
「オレにそんな事してくれた事ねぇじゃん!」
被っていた掛け布から頭を飛び出させ、ポップは喚いた。寝たフリも続けられないほど看過する事の出来ない事実だ。
「ポップは拭く汗もかいてないでしょ」
そう言っては、タオルをポップの顔に向かって投げつけた。
「ぶっ!」
みんなみんな、自分に修行させようとするのが面白くない。顔に張り付いたタオルを毟り取ると、ポップはムカムカと沸き起こってくる苛立ちをそのままぶつける。タオルをに向かって投げ返した。
「へっ! おれは今のままで十分なんだよ!」
「何が十分よ!」
タオルと怒声がアバンを飛び越えて往復する。
「私だけじゃなくダイにまで越されていいの!?」
「お前は女だから手加減してやってんだよ!」
「一度でも私から組み手で一本取れてから言いなさいよ!」
「今までは本気じゃねぇもん!」
「どうせ口だけでしょ!」
「ンだと!? おれが本気を出せば、スペシャルハードコースだって何だって、ヨユーでクリアしてやるもんよ!」
「じゃあ本気出して御覧なさいよ!」
「言われなくてもいつか見せてやるよ!」
頭上で行き交うタオルに気にも留めず、アバンはやれやれと眠りに落ちた。
++++++++++++++
修行二日目。
剣術の特訓の様子をとポップは眺めていた。
明らかに昨日とは違う動きに、同じく剣を使うは段々と前のめりになっていった。あの太刀筋は上達が早いなんてものじゃない。今この瞬間も爆発的に進む成長が、目の前で繰り広げられているのだ。それにあのアバンが圧されているなど、目を丸くして見るより他ない。口が開いていくのにも気付かなかった。
さらに驚いたのは、アバンストラッシュを披露した事だった。
ポップとは目を合わせる。
「信じられない……!」
「たった二日で決め技見せちまうなんて……!」
自分達が見せてもらえたのは半年も過ぎた頃だ。それだけダイの才能や成長が目ざましいという事なのか。
こんな小さな少年に世界の命運をかけた勇者育成を頼むだなんて、ただの王族の縁故や酔狂からじゃなかったのか。どうやら自分たちは分かっていなかったようだ。
二人はアバンの本気を見た気がした。
「……なぁ」
「何?」
今までを考えれば珍しかったポップの神妙な面持ちは、この島に来てからはよく見かけるようになった。
「何でアイツ、あんなに一生懸命なんだろうな」
「うーん、パプニカの……確かレオナ姫を助けに行くんだって言ってたわね。この島のモンスターもずっと魔方陣の中ってわけにもいかないし」
「それが分からないんだよな」
ポップは小さく口を尖らせて、視線を横にずらした。
「大事な友達や家族だっていうのは分かるけど、それをあいつがやらないといけないような事か? 勇者になってまでやるような事なのか?」
「そこまで突き動かすものに思えないって?」
「おれにはな」
「それでいいんじゃないのかな」
「え?」
本当は怒られると思っていた。”良い事”が分からないと自分は言っているのだ。真面目なのことだ、”良い事”は良い、と諭されるかもしれないと少しばかり思っていたのに、この反応にポップは驚いた。
「大事に思えるものは人それぞれ違うんだもの。もし同じだけ思っていたとしても守り方だって色々よ。ただダイの場合は考え方がシンプルなのね。危機から守るためには、どうやって守るかじゃなくて根本から解決すればいいと思ったんじゃない? しかもそれを自分の手で。それってなかなか考えつけるものじゃないわ。すごく真っ直ぐで、すごく力のいることよ」
「やっぱりバカってことか」
「純粋ってことよ」
は人差し指でポップの頭を小突いた。
「あ、そうか。じゃあポップも何か目標があれば修行に身が入るってことよね!」
「目標ぉ〜? おれは別に今のままで……アバン先生のそばに居れて……ま、まぁお前も賑やかしで、い、居てもいいんだけど、な。そんな日が続けば別に……」
ポップは頬にほんのりと朱を差しながら、語尾を段々と小さくしていく。つま先で地面を蹴ったりと、照れ隠しで身体中が落ち着かない。
「うんうん、そうかそうか」
聞いてるのか聞いてないのか、はあごに手を当てて考え込む。
「……おめぇ、聞いてんのか?」
「よし! 分かった!」
「聞いてねぇだろ!」
「じゃあ私を守ってくれる?」
底抜けに明るい笑顔と共に振り返ったに、ポップは言葉を呑んだ。
「な! 何を……!?」
わざとだと分かっていても、丸めた手を胸元に寄せて大きな目で見上げてくれば、惚れた弱みでときめかざるを得ない。動揺しながらも律儀に答えてしまう。
「お、おれより強い奴をどうやって守るんだよ!」
「あはは、それもそうだ。いいと思ったんだけどなー」
本当に思ってたのか分からないくらい軽く返し、は笑いながら行ってしまった。きっと昼ご飯の準備をしに行くのだろう。
「ちぇっ」
からかわれたようで面白くないが、思ったよりも嫌な気持ちがしなかった。
それよりもポップの胸の中にポツリと浮かんだ明かり。真っ暗な空の海に浮かぶ灯台のような星明りは、頼りなさげに浮かんでいた自分に指し示された指針のように瞬いた。とても遠くておぼろげだったが、ポップはどこかに何かが灯った気がした。
二日目も終わると、ダイは早々と大地斬をマスターした。
習得に何ヶ月もかかったは、ポップほどではないにしろ若干の驚きと焦りを感じる。真面目に修行してきたつもりだったが、もしかしたらポップの事をとやかく言えないぐらい現状に胡坐をかいていた所があったのかもしれない。アバンとブラスがポップの事を話している横で、はボンヤリと鍋の中を見つめていた。
ダイのように目標があるわけではないが、明日から自分も本腰を入れて朝夕の特訓に混ぜてもらおうか。そう決意したところで、
「どれ。ワシはダイの様子でも見てこようかの」
そう言ってブラスはかまどのあるこの部屋を出て行った。
アバンとの二人きりになった部屋では、くつくつと鍋の中が踊る音と野菜を切る軽快な音だけが響く。
久しぶりに訪れたような静かな空気に、は少しだけ気恥ずかしくなった。アバンと二人きり。たったそれだけの事だが、意識し始めてしまうと胸の高鳴りは治まる事を知らない。お玉を握る手の感覚が僅かに鈍くなるのさえ感じた。それを隠すようにわざと話しかけた。
「アバン先生」
「何です? 」
アバンは手元の野菜を切りながら答える。
「先生、楽しそう」
おや、アバンはそう言って野菜から顔を上げ、を見る。
「そう見えますか?」
「ええ。とっても」
「敵いませんねぇ」
肩を揺らしながら笑うアバンを見て、も笑った。
「すごい才能だものね。10ゴールドの剣であれほどの剣圧が出せるなんて、私なんかじゃすぐに太刀打ち出来なくなっちゃうかも。教える方としては成長が見て取れて、楽しいものなんじゃないんですか?」
アバンは手の中の包丁を置いて、今度こそきちんとの方を見やった。は吹き零れる心配に、鍋の中を覗き込んでいる。
「剣の事、知ってたんですか」
「はい。伝説の名剣なんて持ってるなんて聞いた事がないし、先生ってモノにはこだわらないから、そんなトコかなって」
当然のように即答するに、アバンは破顔させて再び肩を揺らした。その静かで落ち着いたアバンの笑い声がは大好きだった。
「」
肩をトントンと叩かれながら呼ばれたので、は鍋をかき混ぜる手を止め、鍋の中身を見ていた視線を横のアバンに向ける。
するとそこには既にアバンの顔が眼前に迫っていた。
軽く、でもしっかりと、アバンはの唇に口付けを落とした。
「せ、先生!?」
は途端に顔中を朱に染める。今しがた感じた柔らかな感触が、激しい動悸とともに何度も蘇る。嬉しさと恥ずかしさから、顔を朱と桃の色に交互に染めた。
「ハハ、数日振りでしたね」
「不意打ちはやめてください! もう……ビックリするなぁ!」
隣の部屋を気にしながら声を潜め、はお玉を握りしめてアバンを睨み上げる。
「ビックリしただけですか?」
答えを分かっていながら聞こうとする、無邪気で幼い顔。そんな顔を見せられてしまえば反論など出来はしない。は聞き取れるかどうかというほどさらに声を潜めて、薔薇色の唇を小さく尖らせた。
「……嬉しかったです……だからもっとその瞬間を心に刻みたいんですから、不意打ちはやめて下さい……。先生との距離を感じられなくて、勿体ない……」
瞬間、アバンの瞳に深い色味が差した。
そして素早くの両手を握ったかと思うと、気配を探るように後ろを振り向き動きを止める。ややあってからの方へ向き直ると、少し体を屈めて視線を絡ませた。
たった一瞬だった。
それでもその熱くまっすぐな視線の交差は、の体を沸騰したかのように熱くさせ、心臓は一回大きく跳ね上がった。
数秒にも満たなかったかもしれない。それでも永遠と思われるような口付けを、二人は交わした。
鍋の中が踊る音が、やけに耳に残った。