モノクロ 5
実際問題、限界寸前だった。
初めてした喧嘩がこんなに長引いてる事も、弁解の余地さえ貰えない事も、愚かだと十分承知してるが男として肌に触れられない事も。
昼食に配られたパンを無気力に咀嚼するしかない無力な自分にも。
力を出してもらえるようにとメルルが卵と牛乳をふんだんに使って焼き上げた特別製のパンなどという事にも気付きもせず、アバンは咀嚼し嚥下する行為を繰り返しているだけだった。
心なしか老け込んだ気がする。
「先生、隣いい?」
不意に聞こえた声は、聞き慣れたものよりいくらか大人っぽくなっていたが、持ち主を忘れるはずがなかった。
「はい、どうぞ、マァム」
大げさなほど口角を上げて振り向くと、桃色の少女が昼食を手にしてにこやかに歩み寄った。アバンは人二人は腰掛けられる大きな岩に下ろしていた腰を端に寄せると、空いたスペースの埃を払う。
「ふふ。ありがとうございます」
マァムは有り難くアバンの気遣いを受け取り、多少は綺麗になったスペースへ腰を下ろした。カサカサと手の中の包みを開けると、中からサンドウィッチを取り出し、口に運ぶ。一口飲み込むとマァムは口を開いた。
「ダイ……見つかりませんね……」
「……そうですね。長期戦になるかもしれません」
「うん……そう、ですね……」
マァムは遠くを見つめながら無意識にサンドウィッチを口にする。急ぐ事なくゆっくりと話していくリズムはアバンには心地良かった。
「レオナがね、辛そうなんです」
「ええ、気丈に振る舞っていますが、とても……痛々しいですよね」
「うん……。私達じゃ何を言っても慰めの言葉にならなくて……いい言葉も見つからないんです。本人は大丈夫、なんて言ってるけど、毎日眼を真っ赤にしてるのよ?」
小さなあの背中に、驚くほどたくさんの物が圧し掛かっている事に思いを馳せながら、アバンもパンを口に運ぶ。
「私、そんな人をもう一人知ってる
よ」
思わず口の中のパンを零しそうになる。
「……?」
慌てて飲み込むように嚥下し、予想だにせず出た恋人の名を確認するかのようにオウム返しする。
「初めて会った頃はね、心という心を軋ませて、今にも弾けそうな感情を必死に抑えつけてる感じだった。笑顔が無くなるのも当然よね。でも、それほどアバン先生の事を思っていたんだなぁって思ったの。ああ、これが愛なんだ、って」
「――ちょ、ちょっと待ってください」
隣のアバンを見ると顔に明らかな動揺を浮かべている。こんな表情をマァムは見た事がなかった。
「笑顔が……無くなった……?」
「……先生、知らなかったの?」
そう言ってから気付いた。
この三ヶ月間にどんな事が起きてたのか細かく話す余裕など、この一週間で有りはしなかった事を。
アバンは一秒でも早く一言でも多く情報が欲しいといった様子でにじり寄るようにマァムに迫る。
「そ、そう、だったよね……知るわけないよね。――あのね」
早く早くと急かされてるのは分かるが、敬愛する師の為に丁寧に伝えてあげようと、姿勢を正して一呼吸置く。それに気付いたアバンもいつの間にか迫っていた姿勢を元に戻し、マァムの言葉をただ待つ。
「――今も言ったけど、は先生に再び会うまで全く笑わなくなっていたの。それはもう……痛いぐらいに……。私達、何とか元に戻ってもらおうと思って色々声を掛けたけど、どんな言葉もには響かなかった。いつもどこか遠くを見ていて、その先には何も無いの。『何を見てるの?』って聞いても、『見えないから探してるの』って……。本当に……見てられなかったなぁ……」
マァムはが見ていた景色を探すように、今思い出しても胸が裂けるような儚さに涙してしまうのを我慢するように、小さく天を仰いだ。
「それでも甲斐はあったのか、最初に会った頃に比べればいくらかマシにはなったのよ? 少しずつ表情が戻ってきて時々笑顔も見せてくれたわ。って言ってもダイとポップとレオナ以外は元のを知らないから、私もようやく本当のに会えてきたって感じだった」
ほんの数週間前の事なのにひどく昔のような気がして、マァムはつい笑ってしまう。
アバンは静かにマァムの言葉を聞き入っていた。
「……でも結局、先生には敵わないのね。私達には戻せなかった笑顔をあっという間に戻しちゃった」
おどけたように肩を竦めて見せたマァムは、次の瞬間、何かに気付いたようにその動きを急停止させた。
次に何か言葉が続くと思っていたのに、ほんの少しだが間が空いた事に違和感を覚え、アバンは隣の少女に視線を向ける。
「マァム?」
「……ううん、違う」
今までの可憐な声色とは打って変わって、低く抑揚の無い声が響く。
そしてアバンの方へ向き直る。
「アバン先生がの笑顔を持っていっちゃたのよ」
つんざく様な胸の痛みを覚えた。
責めるでもない、でも悲しげな顔を見せるマァムに何も言ってやる事が出来なかった。ただ、火傷しそうな熱と耳に響く音を伴う胸の痛みに、呼吸を忘れて耐える。
「言ってたわ。先生は自分の事を好きじゃなかったのかもしれないって」
「まさか!」
「私もそう言ったけど、でもすごく深くて、すごく悲しい瞳をして、言ったの。『そうでなければ、私一人を置いて逝くはずがない。こんな苦しい気持ちにさせるはずがない』って……」
目の前は真っ白。
よく言う表現がこんなに当てはまるとは。
愕然とし、視界がひしゃげて昼か夜かも分からなくなる。
身体中が脱力していくのを感じ、もはや自分の足が地についているかも定かではない。崩れそうな意識では己の顔が歪んでいる事など気付きもしない。
自分がどんなに酷い事をしてしまったのか、今になってやっと分かった。
分かっていたつもりだった。
だがそんな想像をも超えた責め苦をあの小さな身体に背負わせてしまったのだ。
己の愚かさに絶望に近い呆れすら感じる。
身を切られるような痛みと共に。
その痛みとは比べようもないほどの悲痛を、は味わった。
そんな真っ白な頭の中にポツリと浮かんだたった一つの想い。
脇目も振らず、縋るようにそれだけを握り締めた。
いつの間にかうな垂れていた頭を起こし、真っ直ぐ前を見据えた。
「ありがとう、マァム」
お礼を言われる理由が分からなかったが、マァムはアバンの横顔から見える迷いのなくなった瞳を見て、無言でその謝辞を受け取った。
次回、裏行きです。
ゴメンなさい。