船は行く
ロモス王が用意した特別船は、ダイたち一行に快速快適な船旅を提供していた。滑るように海上を進む船は、海面を反射する眩しい日を浴びて、誇らしげに進んでいく。ロモスを出航して三日経ったが、航路は依然好調。競争するように併走するイルカが微笑ましく、船旅に慣れない彼らを沸かせた。
百獣魔団軍団長獣王クロコダインを討ち取り、王都に押し寄せる軍勢を払った救国の勇士たちは、国を挙げてその功績を讃えられた。祝勝のファンファーレが上がる中、『ここロモスに小さな勇者誕生せり』と沸き上がる民の歓声が、拍子の付いた歌となって国中を包んだ。少し気恥ずかしかったが、彼らは素直に喜んだ。
そして急ぐ旅の手助けに、次に向かうパプニカまでの船をシナナ王は快く用意してくれたのだった。ロモス造船所の粋を結集した一級船を初めて見た時、ダイたちは胸を躍らせた。こんなに素晴らしい船は、誰も見た事も乗った事もなかった。
その船はロモスを出港すると、まずデルムリン島へ航路を取った。それは連れ去られたブラスを島に戻す為だ。ポップの杖の宝珠で出来た魔法陣にずっといるわけにもいかない。狭苦しい所に閉じ込めておくのは申し訳なかったが、また魔王の気に中てられて理性を失っては元の木阿弥であったし、仕方なく魔法の筒を使って移動してもらう事になった。島に着くまで出す事は叶わなかったが、ダイは常にブラスの居る筒を持っていた。そして洋上や船の様子などを教えては、いつも話しかけている。それはまるで、もうすぐしばらくの間離れてしまう時が来るのを思い起こさないようにしているみたいに。
が船尾を歩いていると、船員達の話し声を耳にした。
「なぁ、もうすぐかな」
「ああ、そろそろ島が見えてくる頃だ。船長からお呼びが掛かるぞ。その前にメシにしとこう」
それを聞いて、はダイの所へと向かった。
「ダイ。少し、ブラスさんとお話していい?」
ゴメちゃんと共に談笑を交わしていたダイは、少し驚きながらも快く筒を渡してくれた。は大事に受け取ると、甲板を少し歩いて船室を背にして立ち止まる。
「ブラスさん、ブラスさん。私、です、聞こえますか?」
驚かせないように少し潜めて、筒に向けて声をかける。
「おお、ちゃん。聞こえておるよ。どうしたんじゃ?」
「長い間、こんな狭い所にいてお疲れになったでしょう? でも、もう少しで島が見えるそうです」
「ああ、それは良かった」
ブラスが何度も頷いているのが見えるようだ。
「ですが……私、まだあの島を平常心で見れる気がしません。だからここで先に、お別れのご挨拶をさせて頂こうと思って」
驚くほど丁寧な娘だ。こんな時まで気遣う必要はないし、しかもそうする理由も悲惨この上ないものだというのに。ブラスはあの日の痛々しいの姿を思い出し、筒の中で頭を振った。
「そうか……。ああ、辛い出来事じゃった。仕方ないよ。――辛くなるとわかっておるのに、ワシの為に島まで送ってもらって悪かったのう」
「いいえ、私がいけないんです。なんでもないような顔をしていかないといけないのに、まだ勇気がなくて……」
「それは勇気とは言わんよ。当然の気持ちじゃ」
「ブラスさん……」
優しい声色がの心を救う。まるで本当のお祖父さんと話しているようだ。
「……のう、ちゃん」
「はい」
「その……ワシは182年生きておるが、それはモンスターとしての生じゃ。人の感情の機微まで、よう分かっていないのかもしれない」
言い難そうに言いよどむが、はしっかりと聞き取ろうと静かに待った。顔が見えていなくてもそれを感じ取ったブラスは、丁寧に言葉を選ぶ。
「それでも、きみを見ていると辛いよ。身を裂くような悲しみかもしれない。じゃが、もっと肩の力を抜いてはどうかね? それはきみ一人で背負うには、あまりに大きすぎるものじゃ。けれど周りにはダイや仲間がおるじゃろう。頼りない肩かもしれんが、少し分けるのには役に立ってくれるはずじゃ。――差し出がましい事を言うようじゃが、年寄りの戯言と思って聞いて欲しい。若い者が苦しんでいる姿は、年寄りにはこたえるもんじゃ……」
ダイの所へ戻ってくると、先程と同じように大事に手渡した。そして身体を屈ませて、筒に顔を寄せる。
「ブラスさん、ありがとう。どうかお元気で」
「ああ、ちゃんも気を付けての」
は魔法の筒を優しくひと撫ですると、ダイに目を合わせてから船室へと向かった。それを見送ると、ダイは筒の中のブラスへ話しかける。
「ねぇじいちゃん、と何を話してたの?」
「大人の話じゃ。お前にはまだ早い」
「ちぇっ! なんだよ、子ども扱いして! おれ、もう勇者だって言われたんだぜ?」
「ばっかもん! 勇者だろうと何だろうと、子供は子供じゃ!」
筒の中に居るはずなのに、ダイは何故かいつものように杖で頭を小突かれた気がした。
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デルムリン島を出て二日目。ロモスを出航してからは五日が経っている。
この船は常に船首から流れ出ている聖水で守られていて、モンスターに襲われる事もない。ありがたい事ではあったが、ダイは身体を動かす機会をなくされ、持て余しているようだ。船内の探険は既に一日目で済んでしまっており、あとは甲板に足を伸ばすぐらいしかする事もなかった。ポップは甲板に伸びて昼寝を楽しもうと思っていたが、何とか話し相手にさせようとするダイに阻まれている。目を瞑ってやり過ごそうとするが、他にする事もないダイも必死で、グラグラとポップの身体を揺すっている。
「ねーポップ。組み手でもしない?」
「ヤダね。おれは忙しいんだ」
「どこがだよ」
ポップは視線だけを固定し、飽きるまで揺さぶられるままにさせておく。
早くパプニカに着きたい気持ちばかりが先走り、ジッとしていられないんだろう。ダイは終始落ち着かない様子であるが、こればかりはどうしようもない。もどかしくとも、これが最短であったし、もう数日かかるであろうこの船旅を船長と波風に委ねるしかなかった。
「何やってるの? あなたたち」
マァムが首を傾げながら近付いてきた。ダイは目を輝かせて振り向く。
「あっマァム! おれと組み手しない?」
「また? 別にいいけど、これで三回目よ」
よくやるもんだ、とポップは顔をしかめた。
「だって暇だし、身体がなまっちゃうよ。おれ、こんなに一箇所にジッとしているの初めてだ」
「どんだけ野生児だったんだよ、おめぇ」
「ねぇ、そんな事よりは?」
そういえば、とダイは辺りを見回してみた。食事前までは一緒に居たのだが、しばらく姿を見てない気がした。だが、広いといっても所詮は船内だ。見失うわけもなく、よく見れば、船首の方の欄干に赤いマフラーをたなびかせて佇んでいるのに気付いた。そういえば、ポップはずっと船首の方を見ていた気がする。
「あ、いたいた! なーんだ。ポップってば、ずっとを見つめてたのか」
ポップは途端に顔中を真っ赤に染めると、掴みかかるようにダイに寄った。
「バッ、バッカヤロウ! 見つめてんじゃねーよ! 見てただけだ!!」
「どう違うんだよ? ――まぁ、ずっとああだもんね、……」
三人は同じ方向に視線を向ける。は見られているとも気付かずに、変わり映えしない洋上の風景を飽きることなく見つめている。飽きもしないはずだった。の見ているのは風景などではない。もっと遠くなのだ。
そういえばデルムリン島に着いた時、ダイはブラスとの別れが寂しくて船室で隠れていたが、と一緒にその時間を過ごした事を思い出した。「まだ見れないの」と言って膝を抱えていたは、船が出発するまで眉間に深い影を落としたままにしていた。
「……ねぇ、の事なんだけど」
マァムは少し悲しげに眉を下げた。
「前からあんな感じなの? なんだか、すごく辛そうだわ」
ポップの身体が少し揺れた事にダイは気付く。だが背けた顔はそのままで、向ける素振りも見せないようなので、代わりにダイが答えはじめた。自分が答えていいものか迷ったが、致し方あるまい。
「ううん。おれが初めて会った頃は普通に笑っていたんだよ。――でも、アバン先生が死んでからは、ずっとああなんだ」
「アバン先生が死んでから?」
「実はさ、……愛し合ってたんだって!」
口元を手で押さえていても、音量は変わらない。ポップの眉間の皺は増える一方だが、興味無いという風を押し通し続ける。
「ちょっと、それ本当なの!?」
「本当だよ。最期に本人たちが言ってたもん」
「あの先生がねぇ……。なんだかそういった関係には縁の無い人かと思ってたけど……意外だわ」
マァムは腕を組んで感嘆の息を漏らした。予想だにしてなかった関係を知って驚きつつも、の今までの様子を考えると、急に合点がいった。あの沈痛な面持ちは、愛する人との永劫の別れに直面した行き場の無い苦しみからだったのか。どこかで見た事があると思っていたら、父のロカを失った時、母のレイラも同じような顔をした瞬間を見せた事がある。声をかけるのも憚られた、そんな痛々しさだ。
「アバン先生の事、本当に好きだったんだね」
ダイのその言葉に、ポップは胸の中心を砕かれるような感覚を覚える。今まで薄氷を踏む危うさで意識を背けていたその考えに、無理矢理向き合わされた。
そうだ。はあの山吹の花のような笑顔を散らせてしまうほどのショックを受けた。それはそこまでアバンの事を想っていたという事実を、嫌でも突きつけられている事に他ならない。の苦しみと傷が深ければ深いほど、ポップの胸を抉る傷も比例して深くなっていく。ポップはまだ割り切れぬ想いを抱えたまま、喚く口を堪えられずにいた。
「けっ! いつまでも塞ぎこんでればいいだろ!? やかましくなくていいやっ!」
「何、怒ってるのよ?」
マァムは目を丸くして驚く。
「ポップはね、の事が好きだからすねてるんだよ」
「うっ、うるせーーっ!!」
トマトのように赤面させたポップは、にまで届かないギリギリの声量でダイの耳元で叫んだ。
「ふーん? そうだったの?」
だが時は既に遅く、マァムはにやりと笑って意味深な目を寄越した。ずっと喧嘩仲間のポップの弱みを見付けたようで、マァムは少しからかってやった。
「うるせぇっての!!」
もう否定する事に意味を成さないのを諦めと共に承知してるポップは、ただがなり立てるしか術が無い。
「まぁ何となく分かってたけどね。でも、それで何でイライラしてるのよ」
「さてはアバン先生に嫉妬してんだろ?」
「つまんねぇ言葉憶えなくていいんだよッ! アホッ!!」
ポップはありったけの力でダイの耳を引っ張り上げる。
「いててっ! 痛いよ、ポップ!!」
嫉妬?
アバン先生に嫉妬?
尊敬するアバンに対してそんな感情を持ってしまっている事を認めたくない自分がいた。そんな負の感情を持ちたくないのに、が好きだと感じるたびに必ずアバンの影がポップを覆う。振り払っても振り払っても、影法師のように切り離されはしない。その影が自分の足元から伸びているという事に理解できぬまま、相反する激情はポップの心身を引き裂かんばかりに相克していた。
それでも、ポップは負に引き摺られずに己を保つ方法を一つ見つけたのだ。あの灯台のような明かり。濃紺の海に挟まれた絶望的な寒さの中で、縋るように掴んだ光明。掴んだ手を広げてみると、それは薄い薄い飴細工だった。ポップはこんな時にでも無意識に発揮してしまう持ち前の器用さを恨めしく思いながらも、とても上手に細工して影を覆ってみせたのだ。
「の気持ちも分からなくもないけどさ……。でもこのままは良くないよ! には前みたく笑っていて欲しいし! なぁ、元気出してもらいに行こうよ!」
恐ろしく能天気なアタマで考えついたその案を携え、ダイはポップの腕を掴んで引き摺って行こうとする。
「バッ、馬っ鹿か、オメェ!?」
「無闇に触れるものでもないのよ、ダイ?」
「大丈夫だって! ホラ!」
止める声も聞き入れず、あっという間にのところまでポップを引っ張っていってしまった。
「!」
「ダイ? どうしたの?」
振り向いたはその黒曜石の瞳をパチクリとさせて、駆け寄ってきた二人を見る。
「あの……さ、元気出しなよ」
「え?」
自分に元気ないのを自覚してないのか、突然そんな事を言われ呆けているはフォローを求め、ポップを見る。
「オメェがずっとそんな顔してっから、こいつが心配してんだよ」
ダイの頭を小突く。は誰も気付かないような小ささで驚いていたようだ。自分が心配されてると夢にも思わなかったというように。
「オレも先生が死んでショックだったよ……。は先生と好き合ってたんだろ? だからショックはオレなんかよりずっと大きいんだと思う。それは分かるよ。でも! ……でも、先生だってきっと、がずっと悲しんでるなんて望んでないと思うんだ。いつかは……を想ってくれる人と幸せになって欲しいと思ってるよ!」
ダイなりにポップにフォローを入れたらしい。だがそこに抑揚の無い声が響く。
「……先生が? それはないわ」
「どうしてだよ!?」
「だって先生はもういないもの」
は泣きも怒りもせず、表情一つ変えずに吐き捨てる。そして甲板を歩いて行ってしまった。
「……」
ダイはもう追う事も出来なかった。
死者はもはや語らない、ということなのか。希望的観測も受け付けない。はただ現実としての死を享受する。
ポップはただ一つだけ、アバンを恨む事があった。
――アバンはの笑顔を持って行ってしまったのだ。
がどんな思いをするのか、考えなかったのか。それでも生きろ、と言うのか。そしてそんな思いのまま魔王軍に立ち向かえと言うのか。あまりにも酷な仕打ちはでなくとも胸を痛める。
は強くなった。アバンの教えられた事を忠実に、確実に再現しようと、機械のように正確に技を繰り出す。まるでアバンの技や術を一つも漏らさずその身に抱いていたいかのように。アバンはこうなる事を望んでいたのか? こんなを見たかったのか? ポップの中には答えの得られる当ても無い疑問が沸々と湧いてくる。
アバンの代わりにの側にいようとか、そんな大それた事は思っていない。ただ、解き放ってやって欲しかった。笑顔を返してやって欲しかった。アバンがいるはずの空をふと見上げるを見ているのは、あまりにも辛すぎるのだ。の心も身体も持って行ったのだ、せめて……笑顔ぐらいはに、俺たちに返してくれ……。ポップはそう願わずにいられない。
またあの頃のように笑ってくれるのだったら、が傷付かなくて済むなら、もう逃げたりしない。強くなろうと決めた。だから彼女を守る為に魔王軍に立ち向かおうと思えた。だからロモスでは震える足を必死に奮い立たせ、勇気を振り絞る事が出来たのだ。だから、だから……!
ポップは懇願とも言える顔で、先程までの見ていた空を見上げる。
きっとそこにはアバンがいるはずだから……。
は船尾の隅で立ち止まる。欄干に手を掛け、目を強く瞑りながら指を握り込んだ。
みんなみんな、自分を立ち直らせようとする。でも、いつ来るとも知らない「いつか」を待つのに、一体、何年何日何秒の死よりも苦しい「生」を生きていかないといけないのだろう。その一瞬一瞬をどうにか息を吸い、吐くのだけでも精一杯なのに、憎しみも持たず、苦しみも持たず生きろとは。ではこの喪失感を埋めるにはどうしたらいいというのか。にはまだ分からなかった。
憎悪に駆られ真っ黒に腐食する胸を留める事は出来ても、いまだに笑おうとする気持ちは持てなかった。気遣ってくれる皆には悪かったが、「いつか」など二度と来る気がしない。
そしてポップと同じ蒼穹を仰いだ。
何も答えを寄越してくれはしない、沈黙の蒼穹を。