ヒュンケル
水平線にその姿を確認できた時から嫌な予感はしていたのだ。
小高い丘に在る白亜の建物や大きく広がる港に、どんよりとした雲がかかり真っ暗な影を落としているのを、ここ海上からでも確認できた。船が近付くごとに濃くなる、焼け焦げた嫌な匂いが鼻をつく。これは木材と……骨と肉を焼く匂い。えも言われぬ嫌悪感に思わず眉をしかめる。痺れを切らせ、船が着岸する前からダイは、脚を目いっぱい伸ばして飛び出した。その後を三人は慌てて追った。
人影のなくなった街中は既に戦火を浴びた後で、生き物の気配がしない。避難が間に合ったのか最悪の事態が起きたのかは分からなかったが、確認する術も余裕も彼らにはなかった。
パチパチと燻る火の音や崩れ落ちるレンガの音だけが、美しかったパプニカの城下町を包んでいた。平和な世に生きていたは、こんな凄惨な街並みを実際に見た事がなかった。目の当たりにして初めて、争いが生む炎と破壊による恐ろしさと衝撃、邪悪さを実感した。沸き起こる怒りが徐々にへと襲い掛かる。
足早に街中を走り抜け、ダイたち四人は王宮へと続く長階段を、硬質な音を響かせて上っていく。そして階段が途切れた時に飛び込んできた風景。全身の血が冷え、時間を止めた。
「あ……」
破壊しつくされた神殿は耳が痛いほど静かだった。まるで言葉もなく痛みに耐えているのか、事切れているかのような、ただただ痛々しい瓦礫の山は、元の美しかったであろう姿を微塵も残してはいなかった。
「レオナーー!!」
駆けてきた心臓の音がやけにうるさくダイの耳元で脈打つ。間に合わなかった絶望感にダイは、膝をつき頭を垂れて打ちひしがれた。
「ダイ……」
「こりゃひでぇぜ……」
流石に憐憫の情を持たざるを得ない。姫の危機に駆けつける為にここまで死力を尽くしてきたのに、それがすんでの所で間に合わなかったとは。
がっくりと肩を落とすダイに掛ける言葉も見つからなかったが、マァムがその肩に手を掛けようとした時だった。静かな神殿跡に石の動く音が響く。四人がうな垂れていた顔を、音のした方へとなんとなしに上げた。すると、動いた床の下から無数のモンスターが現れたのだ。
「なっ何だっ!?」
「魔王軍のモンスター!?」
「こいつらがこの国を……!」
ダイが怒りに剣を抜いた。だがその後方で更なる怒声が上がる。
「どいてっ!」
振り向けば、眼を赤々とギラつかせているが、憤怒の表情で眼前に金の円陣を浮かび上がらせていた。その突然の変わり様に三人はぎょっとする。
も怒りに髪を逆立てる気持ちでいた。破壊尽くされたパプニカの街。かつてはアバンとポップ三人で立ち寄ったことのある思い出の地を無残にも蹂躙されたのだ。アバンとの数少ない思い出を一つ一つ壊されていく怒りに、あの紅い目を発現させている。
「散ッ!!」
金色の流星のように、の魔法はアンデッドたちへと降り注ぐ。体のどこかにその光弾を一撃でも浴びれば、暗黒生命の火を吹き消されたかのように、たちまちガラガラと崩れていく死霊の騎士たち。
だがすぐに土中から新たなモンスターたちが現れる。
「よくもパプニカを……っ!」
は駆け出し、もう一度魔法を発動させる。逃げ場を与えられない広範囲の光弾を浴びた何十というモンスターは、姿を現したものの何もする暇もなく、見る間に土へと還らされていく。その威力に三人は息を呑んだ。
「何なの、あの魔法!?」
マァムは初めて見たの変貌振りに驚愕した。
「ああ、マァムは見るの初めてだっけか。アレがの力だよ」
「の力……?」
マァムはを見た。深紅の瞳を燃やして、金色の力を操るを。まるで生命の炎を爆発させているかのような苛烈さで、マァムは何故か心強さよりも幾らかの心配を宿らせた。
「すげぇぜ、アンデッドたちが手も足も出ねぇ! ……そうか! あれは魔族や闇の眷属の反対の力。「聖」の魔法なんだ! だからあの時、ハドラーに手傷を負わせる事が出来たのか」
「ニフラム……ではないのかしら」
「もっと攻撃に特化してるな。……ったく、ウチのパーティは変わったモン揃いだな」
ポップはそう言ってダイを見た。ダイはというと特に気にもせず、ただの様子に目を瞠っている。
そして今一度魔法を使おうとするに、やはりあの身体の異変が訪れた。心臓が一まわりも二まわりも大きくなって身体中を暴れているようだ。は咄嗟に顔をしかめてその激痛に耐えようとした。だが身体中の血が荒れ狂い、末端に熱い痛みを感じた。震える目蓋を開けてみると、指先にポツポツと赤い斑が浮かび上がっている。末端の毛細血管が損傷したようだった。
(あれだけ訓練しても……二発が限界なの?)
胸を押さえてよろめくは、前線に出すぎていることに気が回らない。なんとかもう一発をくれてやろうと、目の前に円を描いた時だった。
「! 後ろー!!」
すぐ後ろの土中からモンスターたちが飛び出し、に斬りかかったのだ。はダイの危険を知らせる声に気付いたが、身体が動かない。焼けるような痛みを持つ手はナイフの柄まで届かず、中空で震えていた。はせめて聖魔法の宿っている腕で受け止めダメージを緩和しようと、眼前で腕を構え、来るべき裂傷に耐えようと歯を食いしばった。
そこに鳴り響いたのは大地が割れる音。
死霊の騎士たちを粉々に粉砕する剛力と、良く見知った太刀筋に目を疑った。剣を扱うダイとは瞬時に悟った。
「ま、まさか……!」
「これは……アバン流刀殺法大地斬!?」
「ええ!? そ、それじゃあ、あの人はアバンの使徒なの!?」
四人の視線が集まった先、そこにいたのは銀髪の青年だった。
襲撃の止んだ神殿跡に静けさが戻った。ダイたちは大地斬らしきものを繰り出した青年のもとへ駆け寄る。は彼らに気付かれないように、何食わぬ顔で手元に回復呪文をかけた。目の前の青年も気になったが、彼の様子を探りながら横目に、青紫になりかけていた指先の斑が消えていくのを確認した。
「助けてくれてありがとう! あなたもアバン先生の弟子なんですか?」
「なに?」
切れ長の目と低い声が見た目の年齢よりも凄みを感じさせたが、ダイたちが卒業の証を各々見せてやると、納得したかのように口元に笑みを浮かべた。
「確かにオレはアバンから剣を教わった。アバンの弟子というなら、俺はその最初の一人になるな」
彼はそう言いながら剣を鞘へと収めた。どこか禍々しさのある骨ばった鞘は、剣そのものよりも何か底知れぬものを感じさせる。はアバンの一番弟子だというこの青年の顔をもう一度見た。一番弟子……その言葉に胸のどこかに引っ掛かりを覚える。何か……何かが繋がりそうで繋がらないもどかしさに、は同志を見つけた喜びを感じるのは後回しになっていた。だが彼はアバンのしるしを見せ、まごうことなきかの弟子である証明をして見せた。自分とは違う疑点だろうが、それでもポップも釈然としない様子で彼を見据えている。
「お願いします! 俺たちと一緒に戦ってください! 魔王軍を倒す為に……!」
「そうだ。名前をまだ聞いてなかったわね。あなた、何て言うの?」
マァムが笑顔で尋ねる。期待と懐疑の入り混じった視線で囲みながらも、誰もが彼の名を待った。当然聞けるであろう答えを待ったが、静かな間が辺りを包んだ。
「くっくっく……」
その静けさを破ったのは他の誰でもない、この銀髪の青年だった。可笑しさを抑えられないといった様子の低くくぐもった笑い声は、彼らを驚かせる。
「な、何が可笑しいの?」
「可笑しいさ…………お前らの頭があんまりにおめでたいのでな」
予想もしてなかった暴言にポップが一番に反応した。
「なっ、何だとッ!?」
すると彼は邪悪な目つきで合図を指した。たちまち周囲に先程のアンデッドたちが現れる。
「そんな!?」
ダイたちはモンスターの攻勢を防ぎながら、幾つもの疑問が沸き起こる。アバンの技を使いながら魔王軍に与するだなんて、彼らの中では直結できる事柄ではなかった。何故、どうして、という言葉がぐるぐると頭を駆け巡った。そして「あのアバンのしるしは偽物に決まってる!」というポップの怒号が走った。
「偽物ではない」
だが、銀髪の男はすぐさま否定した。
「アバンの弟子全てが師を尊敬し、正義を愛するものではないということよ。なかには暴力を愛し魔道に身を染めた者もいる……正義の非力さに失望してな……!!」
並々ならぬ憎しみと怒りが瞳に込められており、これまでこの男の進んできた道の険しさの浅からぬものを予感させた。見る者を震撼させるその冷たい瞳で、彼は不敵に微笑む。
「オレの名を知りたがっていたな、教えてやろう。オレの名はヒュンケル。魔王軍六団長の一人……不死騎団長ヒュンケルだ!!」
――ヒュンケル――
その名を聞いて、ずっと空いていた部分にピースがはまり、の中でカチカチと音を立てて全てが繋がった。
「そんな……」
は小さくかぶりを振る。
弟子がアバンに刃を向けようとしていた事も、魔王軍に与している事も信じがたかったが、それに怒りを覚えるよりも早く思うのは、何故という疑問と違和感だった。なんという言葉でこのおかしさを、目を冷たく澱ませ、そして曇らせている彼に伝えなければいけないのか。その苛烈さに押され、は上手く言葉に出来ない。ダイやマァムが怒りを露わにしてヒュンケルに向かっていっても、ただ「違う、違う」と呟きながらかぶりを振り、眉を哀しげにひそませるしか出来なかった。
ダイのアバンストラッシュは弾かれ、逆にヒュンケルは紛い物だとは思えないほどのアバンストラッシュを繰り出して見せた。ロモスで貰ったダイの盾は、早々に粉々に砕かれ、その役目を終えた。剣圧に吹っ飛ばされ、ダイは地に伏す。
「ああっ!」
の眉が苦しげに歪む。
「これ以上、先生の技を悪の為に使わせない!」
そう言ってマァムも魔弾銃を構え、臨戦態勢をとる。するとヒュンケルは、あの大きく禍々しい鞘を取り出しこう言った。
「四対一か。それならばこちらも遠慮なく切り札を使わせてもらうぞ」
「鎧化」の号令と共に鞘は意思を持っているかのような動きでヒュンケルの身体を包んでいく。みるみるうちに、全身に銀色の鎧が装着された。一分の隙もない生々しい銀色の鎧は、大魔王の賜り物だというに相応しい威圧感を持っている。そこいらで見かける武器などにはない、圧倒的な武具の違いを、彼らは初見で理解した。
「だめ、待って……!」
完全に戦う姿勢で向かい合う彼らに制止を呼びかけても、誰も耳を貸してはくれない。とうとうマァムとポップは、メラミをヒュンケルへと向けて放った。
「みんな、待って! 戦わないで!」
だがの声など炎の轟音に掻き消され、届かない。見る間にヒュンケルは炎に包まれ、は悲哀に顔を歪めた。
二人分の炎を浴びたヒュンケルだったが、なんと傷一つ付けずにその姿を煙の向こうから見せた。あの鎧に魔法が効かないというのは本当だったのだ。ポップは負けじと、怒りに杖を構える。
「ギラッ!!」
ポップは覚えたての閃熱呪文を繰り出したが、あの禍々しい鎧に難なく返され、己の魔法で全身を燻らせた。
「くっそー……!」
「ポップ!」
が彼らに駆け寄る。傷付く二人を見ては何かが溢れそうになった。
「先生は間違った人間にそのアバンのしるしを渡したりはしないはずだわ!きっとあなただって……!」
「これか」
マァムの必死の叫びも届かず、あろうことかヒュンケルは彼らの大切にしているしるしを、事も無げに放り投げてしまったのだ。彼から語られるアバンを憎む理由、十五年前に起きた事件を皮切りにヒュンケルの半生の中で巻き起こったその憎しみ、怒りたるや、想像を絶するものであった。だが『父の仇』と憤怒の色で瞳を真っ黒に燃やす彼の目がかの愛する人に向けられているなど、にはあまりにも哀しかった。アバンの残した者同志がこうして傷つけ合うなどあの人は望む筈がない。何かが掛け違っている微かな違和感が引っ掛かり続ける以上、は彼に怒れる事など出来ない。あの目は、少し前の自分だ。
「さぁとどめを刺してやるぞ! アバンに食らわしてやるつもりだったオレの必殺技でな!」
ヒュンケルは兜から剣を取り出す。そして剣先をダイに向け、真っ直ぐに構える。
「ブラッディースクライド!!」
「あっ危ねぇ!!」
全てを巻き取って破壊する超威力に、すんでのところで庇われたダイとポップが吹き飛ばされる。も直撃を避けてもその威力に地に伏した。クロコダインの獣王痛恨撃に匹敵する技の凄まじさは、抉られた壁を見ても物語られている。
「う、う……」
痛む全身を引きずって身体を起こしても、ヒュンケルの卒業の日、アバンとの別離となった日の事を聞いても、このままでは皆が皆傷付くばかりで、何も生まない事を悟った。
「もうやめてぇ!!」
はヒュンケルに魔弾銃を向けるマァムの前に腕を広げて立ちはだかった。
「!?」
「……ん? お前が『異質な魔法を操る黒髪の娘』か? 確かハドラーが「黒髪の娘にはゆめゆめ油断するべからず」と大声でふれ回っていたな。先程の死霊どもを瞬時に蹴散らした技が、その異質な魔法というわけか」
「……私を?」
おかしい。ダイではなく、自分に警戒の目を強めるなんて。
魔王軍にとっての脅威は、よりもダイのはずなのだ。確かに不可思議な魔法を使いはして、危険視されるのは当然の事かもしれない。だが、明らかにハドラーを追い詰め、致命傷を与えたのは他の誰でもないダイである。それを受けたハドラー自身が一番分かっているはずなのだ。自分をダシに、魔王軍でダイの力の存在を隠蔽しようとする思惑が感じ取れてならない。ハドラーは何を考えているのか。
「ハドラー……何を考えている?」
は思わず憎々しげに頭の中の言葉を口にしていた。
「どうした、剣を取れ。お前の力、見せてみろ」
ヒュンケルは顎をしゃくって抜刀を促した。だがは頑なに手を握り、腰の後ろにある剣に手を伸ばそうとしない。
「嫌よ! 私はあなたと戦いたくない!!」
「……何ぃ?」
「!? 何を言ってるの!?」
兜の奥にさらに深い影を眉間にとしたのが分かる。マァムはの肩を掴んで顔を覗き込んだ。怒りとも哀しみともつかない顔をしているを。
「アバン先生の弟子同士で剣を向けて、血を流して……、こんな馬鹿げた事をしている私たちを、先生は望んでたはずがないのよ! 先生が哀しむと分かっている事を、私は絶対にしたくない!!」
「ふん、アバンの望みなど知るものか。正義の名の下に全てを奪われたオレの怒りと憎悪は、貴様ら弟子どもを一掃するまで朽ちはしない! さぁ腰に差してるその剣はお飾りか!? 死にたくなければ抜けッ!!」
「嫌よ! 絶対に嫌!!」
今まで見た事がないほど頑ななを、隣のマァムですら驚いている。
「なら嫌でも抜かせてやる」
そう言うが速いか、ヒュンケルは剣を突きつけてきた。耳元で聞こえる鋭い音の後に、頬に熱さを感じる。の白い頬に紅い雫が伝わる。
「剣も無く、よく避けた」
何がよく避けた、だ。本気じゃないくせに。は身を翻しながら思った。そして一呼吸の間もなく、繰り出してくるヒュンケルの剣撃を次々にかわす。力もあるのに速い。は避けるので精一杯で、もし彼が女性には本気を出さないであろうフェミニストでなかったら、それすらも難しかったかもしれない。だがそれは今は好都合だった。剣は絶対に抜きたくなかったし、話を聞いて欲しかった。けれども話をする前に殺される訳にもいかない。は緩急をつけてヒュンケルの攻撃を惑わしに掛かった。
(私と同じだ。きっと私も、あんな目をしていた)
ようやく、己の態度の悪さに気付いた。どれだけ哀しみに逃げて、どれだけ自分だけが哀しんでいると悲劇に浸っていたのか。だからこそ、話がしたかった。アバンを憎むな、などとは言えなかったが、自分には伝えないといけない事がある気がしたのだ。
「お願い、話を聞いて! 私たちはこうして争うべきじゃない! だって先生はあなたを……!」
「うるさい! 話す事など何もない! チョロチョロと逃げ回っているばかりでなく、剣を取ってお前たちの仇である魔王軍のオレに向かってみろ!」
「い、嫌だ……!!」
さらに拳を握り締めて、は頭を振り、断固拒否した。ヒュンケルはその頑なさに大きな舌打ちを放ち、構えていた剣をおろす。
「――魔王軍で聞いた。お前だろう、あのアバンが愛したという年若い忘れ形見は。どんな女か少しは興味があったのだが……期待はずれだったようだな。こんな腑抜けた女だったとは」
癪に触ったが、それでも剣の柄に手を伸ばす事はしない。奥歯を噛み、出しそうになる手を必死に押さえた。ここで挑発に乗って剣を抜いてしまったら、自分の中の牙城が音を立てて崩れてしまう。は目を細めて叫んだ。
「あなたがどんなに悲しみ、絶望したか、私には良く分かる! 大事な人を奪われて、真っ暗な中に一人きりで突き落とされて、出口なんて見えやしなかった! それでも今は残された自分達が何が出来るのか、何をすべきなのか分かった気がするの! でも、でもあなたは……きっと何かを見過ごしている。思い違いをしている……! それに……アバン先生はきっと全部知っ……」
「アバンが旧魔王軍を討ったのは勘違いだとでも言うのか! お前のような小娘がいっぱしのアバンの女気取りで、何を知っているというのだ!」
「違う違う!! アバン先生は……!」
「もう黙らんか!!」
ヒュンケルの剣が唸りをあげてチカを襲う。剣圧に吹き飛ばされたチカは、背中を壁にしたたかに打ちつけた。脳天にまで響く痛みに目の前がグラグラする。
「もうやめなさい、ヒュンケル! 剣を捨てるのよ!」
「マァム……だめ……」
よろめきながら、ヒュンケルに魔弾銃を向けるマァムを止めようとする。だがチカの声も聞かず、マァムはトリガーを引いてしまった。チカは両の眼をぎゅっと瞑り、俯いた。
ヒュンケルは魔弾銃から放たれた魔法を軽々と引き裂いたが、その瞬間、魔法は甘ったるい香りと共に弾けた。マヌーサだ。ヒュンケルは苛立たしげにマァムの残像を切り裂いていくが、どれも本体ではない。ヒュンケルは目を瞑る。その紫水晶の瞳を目蓋の奥に仕舞い込むと、気配を捕らえんと神経を研ぎ澄ませた。若輩とはいえ幾多の訓練を越えてきた戦士であるヒュンケルに、背後から忍び寄るマァムの気配など、手に取るように分かってしまった。ヒュンケルの肘鉄がマァムの腹に沈み、そのまま地面へ崩れ落ちた。
「マァム!! 何て事を……!」
チカは眉を悲愴に歪ませて、身体を引きずり起こす。
「自分の腕をよく見なさい! あなたはアバン先生の残した兄弟弟子を、憎しみに駆られたまま暴力に訴え、傷つけたのよ!!」
「お前とオレ、どう違うのだ」
「何ですって……?」
兜の奥の深い悲しみを湛えた瞳とぶつかる。とてもとても深い所に潜む、苛烈で痛切で臆病な彼の瞳に。
剣先をチカに向け、声をあげる。
「家族を奪われたオレ。大事な者を奪われたお前。そしてお互いに仇を討たんと剣を取っている。何が違うというのだ」
「ち、違う! 同じだけど……違うのよ……!」
「どう言い繕おうとも、所詮、同じ穴の狢よ。力でのみ無念を晴らすしかないのだ……!」
「違う、違う」と呟いてもヒュンケルに届くまでの大きな声が出ない。その届かない悔しさに体が震える。
「何を言ってもムダだぜ、チカ! こいつは悪に堕ちちまったんだ! 倒すしかねぇ!!」
「そんな事出来ない!!」
「バッカヤロウ! マァムだってやられちまってんだぞ!?」
「う……」
横のポップとそんなやり取りをしていると、ダイが右手に魔法力を溜めているのに気付くのが遅れた。止める間もなく、ヒュンケルに向かって放たれた。
「ヒュンケル!」
どちらの味方だ、とポップに怒られた。ダイの放ったメラが外れてヒュンケルに傷がなく安心してしまった自分もいる。双方が次々に傷付け合い、チカの胸は張り裂けそうになっている。ダイのメラでとうとう怒りを抑えきれなくなったヒュンケルの攻撃に、ダイがボロボロに傷付いていくのを見るのも、苦しくて、哀しくて、チカは涙が溢れそうだ。
「ダイ! 怒れ! 怒って戦うんだ!!」
ポップの叫びがあがる。だがダイも、剣を取れないチカの気持ちが分かった。腹の底から沸き起こる怒りがあるはずなのに、表面に出ようとする寸前に不完全に燃焼するばかりで、芯のある力が湧いてこない。自分に起きているそんな謎な感情、その正体に向き合う余裕などなかった。そんなダイの隙をヒュンケルも逃すはずがなく、骸を操る暗黒闘気を使った技、闘魔傀儡掌をダイに見舞った。たちまち身体の自由は失われる。
「ダ、ダイー!」
もう剣を取るしかないのか。チカは痺れる手を腰にまで回した。だがそれ以上が動かない。ダイの生命の危険がそこまで迫っているというのに、あと少し、手が伸びない。彼を信じたい気持ちと仲間を守らないといけない気持ち、その二つがチカの手の中でせめぎ合う。そしてチカの手は……握りしめられた。
「お願いヒュンケル! もうやめてぇー!!」
は懇願ともいえる悲痛な叫びを上げた。だが彼がそれを聞き入れる事はなく、無情にも魔剣はダイへと向かって伸ばされた。ポップは思わず顔を伏せる。