旅立ち
葉と枝がこすれる音を盛大に鳴らしながら、アバンはその場所に顔を出した。
「着きました。確かここです」
「は、ぁ……、凄い景色……」
昼寝をしているポップの目を盗み、こうして二人連れ立ってどこかへ行くなど初めての事だった。は疑問に思いながらも素直にアバンについていったが、道とは言えない道をかき分けてどうにか着いたのは、木々に隠れた切り立った崖。初めてになる秘密の逢瀬の目的地にするには、何も無さ過ぎた。少々の期待を裏切られた気持ちはあるが、目の前に広がるロモスの山々が描く稜線と、そこから吹かれてくる真新しい風を全身に受ければ、そんな事はどうでも良くなった。
「ここがどこだか分かりますか?」
悪戯っぽく笑顔を見せるアバンに、不意を突いて正解出来る答えなど用意できなかった。ただ素直に答える。
「分かりません」
「を見つけた場所ですよ。――私達はここで初めて逢った」
「! そう……だったんですか」
はゆっくりと蒼穹を仰ぐ。この世界にやって来た時の事を思い出してみたが、何も脳裏に掠めもしない。摩訶不思議な現象すぎて、戻る手立てを一日やそこいらで思いつける事など出来なかった。それを思案しつつも、この世界で一瞬一瞬を生き延びる事の方が優先されてしまい、こうして今も現場に戻ってきても無力に立ち尽くすしかなかった。
「手、繋いでもいいですか?」
急なアバンの申し出に、は驚いた。横に並ぶアバンを思わず振り向いてしまう。眼鏡の奥で細めた優しげな目と合うと、初めて言われた言葉の嬉しさに、深く考えずに反射的に手を差し出してしまった。恥ずかしげに差し出す手を、自ら迎えに行ったアバンの手はしっかりと包んだ。
こんなに見晴らしのいいところでは誰かに見られてしまうんではないかと、は嬉しく思いながらも心配を隠せない。明るい日の下でこんなにも密着して触れ合っているのは、想いが通じ合ってから幾らか経つが初めての事だ。いけない事をしているような後ろめたさではやや俯いてしまっているが、横のアバンは堂々としたものだ。
「あの日から、もうすぐ一年になりますね」
「そうですね、なんだか……あっという間だった気がします」
お互いに正面の絶景を見下ろしながら話しはじめる。
「はこの世界を気に入りましたか?」
「はい。最初は戸惑う事も多かったけど、今は好きだって言えます」
「それは良かった」
薄く漏れる笑みが聞こえる。
「世界は大きくて、広い。そして小さくて、狭い。ここから見える景色全てに見えない生命の営みがあって、我々はそこに受け入れられるかどうか不安になりながら生きている。世界も優しいばかりじゃない。懸命に生にしがみ付いてる者だけが生き残れるし、最も望まないかたちで自分に仇なす事もある。それは無慈悲に、理不尽に、行き場のない憤りを覚えさせるだけの残酷さも持ち合わせている……」
「先生でもそんな事を考えるんですね」
「ええ、たまにね」
無条件に世の中を楽しんでいると思っていたので、少なからずは驚いた。見上げた横顔はどこか遠くを見ているような気がする。
「ただ、世界を愛せ、と言われても難しいですよね。私は十年以上世界中を回ってきましたが、もう一度……いえ、ようやく確信を得た気がします。そこに誰かがいる世界、大切に思える人が居てはじめて、その世界を愛せるんだと。――今はにもそんな人が出来たと、思っていいんですかね?」
「ええ。アバン先生はもちろんですし……ポップ、今まで逢った人達、その人たちが居なければ、此処は一人ぼっちで怖い世界だった。嫌って、逃げ出したくなっていたはずです――アバン先生。私を見つけてくれて、ありがとう」
アバンは少し首をかしげてに笑みを向けたが、直ぐに前を見据える。
「私もね、に逢えて思った事があります。探し物が見つからずに折れそうだった心を奮って、世界中を見て回ってよかった。貴女が居る今が平和でよかった。自分のした事の意味を、いまさらに実感出来た気がする」
はアバンの言いたい事がいまいち分からなかった。それは自分に聞かせる、というよりも独白に近い呟きだ。だがは静かに聞いていた。普段なら覆い隠してしまうような呟きを自分には見せてくれる、それはアバンの特別でいられる喜びと優越を刺激したからだ。
「それに、あの日あの時、ここに辿り着けてよかった。――貴女に逢えて……よかった」
握った手に力を込めてくる。お互い正面を向いていて目も合わせていないが、その手の力強さとアバンの言葉に、は喜びに打ち震えそうだった。全身に甘く切ない微弱な電流が流れた気がする。身体の芯がどこにあるのか分からないほどふわふわと浮き足立ってしまう。握り返す、というよりは倒れないようにしがみ付く感じで、アバンの手に一層指を絡みつかせた。
「……三年」
「え?」
幾ばくかの無言の時を経てようやく出てきたアバンの言葉に少々驚き、聞こえていたのについ聞き返してしまった。
「三年経っても、もし私達がこうして繋がっていたら……またここに来たいのですが」
そう言って、を見た。久方振りに目をあわせたような気がする。他の誰も気付かないような小さな変化だったが、さっきから感じた違和感と今のアバンの顔を見ては気付けた。もしや、緊張していたのか。
自分が呆けたような顔をしているのが分かるが、思うように締まらない。約束の時が来た時の目的が不明瞭ではあったが、そんな事はにとって瑣末な事だった。三年。三年もの間アバンの隣にいる事を暗に許されたのだと、その事だけが天にも昇るほど嬉しくなった。口で言って確実になる事ではないのは分かっているが、居ようとしてくれているその気持ちが、を感激にも近い喜びで満たした。震えそうになる声をどうにか絞り出して、は無理矢理笑顔を作った。
「――はい。来ましょう」
「約束ですね」
「約束です」
二人は握っていた手を少し緩め、小指を絡ませた。そして何度か小さく振ると、また全ての指を絡めるように握り合う。
吹きぬける青い風は二人を包む。は手の中にある温もりを感じながら、目を閉じて深く吸い込んだ。
そして、肺いっぱいに風を満たしてから目蓋を開けた。
ロモスの山々が見えるはずだったのに、開けてみれば視界右半分に広がる鈍色の地面。そして左半分には左方向へと伸びるヤシの樹と夜明けを知らせる灰青の空。
しばらく平衡感覚がおかしかったが、眼球を何度か転がすと分かり始めてきた。右半身に感じるごつごつとした地面から身体を起こす。
「夢……」
夜が白みはじめた頃まで泣き叫んでいたのは覚えている。ダイたちが去った後も爆心地で喉を震わせ続けていた。胸の奥に大きく開いた空洞に、身体中が悲鳴という悲鳴をあげてむせび泣いていたのだ。
空の色具合からしてほんの少しだろうが、泣き疲れたのか、気を失ったのか、どちらにしろ眠ってしまっていたらしい。
手の中でかちりと軽い音がした。
は力なく視線を落とす。
手の中には夢で見たあの日の温もりはなく、ガラスが割れ落ちてフレームだけになったアバンの眼鏡があった。ほんの少しの残像にでもしがみ付くかのように、胸に抱き締めて泣いていたようだ。は無表情に、眼鏡を乗せる手を見つめる。
もうこの手は繋がっていない。
あの大きくて温かな手は無く、あるのは形見のようなあの人の影。
だがはその事を哀しがるわけではなかった。逆に確かな何かを掴んだ気がした。
全てが終わったら、あそこに帰ろう。
アバン先生の愛した世界を護って、もう一度眺めよう。
きっと先生は逢いに来てくれる。
「よく頑張りましたね」
そう言っていつもの笑顔で頭を撫でてくれるんだ。
胸を張って逢いに行こう。
だから
私は
は立ち上がった。
しっかりと地を踏みしめて、背筋を伸ばして。
そして手の眼鏡を一旦地面に預けると、衝き立てられて残ったアバンの剣を手に取った。目の前に掲げた鈍く光る鋼の刀身には、自分の決意に満ちた瞳が映り込んでいる。最後に一度、アバンの剣の中にいる自分と目を合わせる。
おもむろに左手でだけで自分の髪を束ねると、剣を宛がった。
ぶつり、という音をさせながら剣を滑らせていくと、あっという間に首筋に南国とはいえヒンヤリとする夜明けの風が通った。思ったよりも質量を感じる黒髪の束を、躊躇なく手放して足元に散りばめる。そして剣の柄を握り返すと、地面に強く衝き立てた。
それは墓標だった。
は淀みない動きで身体を下ろし膝を地面につけると、両手を組んで目を閉じた。
(心はここに埋めていきます。永遠にあなたと共に)
短い祈りを終えると眼鏡をまた手に取り、素早いと思われるぐらいの動きできびきびと立ち上がる。そして振り返り、二人の墓標を背に歩きはじめた。
の足は止まらない。
この足を止める場所はもう、決まっているのだ。