ネイル村にて2
青い空と灰色の山の間にある稜線はどこまでも続くように見える。風の優しさも溢れる緑も、あの時と変わらない。まるで何年も前の事のような懐かしさを感じようとした時だった。はた、とその違和感に気付く。
「私……何でここにいるの?」
ここはあのロモスの山。アバンと出会った全ての始まりの場所。
全てが終わったら来るつもりだったのに、どうしてここにいるのか。津々と溢れてくる違和感を感じながら、吹き込む風を正面から受けた時、何かがすれ違った。目の前には誰もいなかったはずなのに、肩先で急に現れた気配に驚きながらは振り向く。
そこには求めて求めて止まなかった、あの後ろ姿。
「アバン先生……!」
瞬時に目元が焼けるような熱さを感じた。
感じる違和感も全てどうでもよくなった。弾かれるように駆け出し、真っ直ぐに手を伸ばす。まるで水面をめがけてもがく必死さで届こうとするが、いつまで経ってもその手に掴む事は出来ない。水の中を掻き進むような重さで身体が思うように進めないのは、あの日の憎い呪文のようだった。とうとう涙で霞むだけではないあやうさで、その姿は薄らいでいく。
「待って先生ッ!!」
呼びかけて振り向いた顔は、やはり愛しい人のものだった。さらに涙は零れる。湛えた笑顔はいつもと変わらない。
『貴女が笑ってくれたら……』
そして声も変わらなかった。
『 ……それだけで私は嬉しい』
細めた目は深い愛に満ちている。大好きだった表情のはずなのに、今はこんなにも哀しい。
「ムリだよ! そんな気になれないよ! だって……
だってアバン先生はいないのに……ッ!!」
「? !?」
切り替わった視界に飛び込んできたのは寝間着姿のマァムだった。ろうそくの明かりに、心配そうに覗き込む顔が照らされている。自分の荒い呼吸と風で窓がガタガタと鳴る音が、夜のしじまに響く。
「わ、私……?」
「酷くうなされていたわよ」
「うなされ、て……」
宿屋もないネイル村では、旅人に割くベッドも大して用意が出来ずにいた。ベッドが二つだけある休憩所の一部屋にはポップとダイが休み、マァムの部屋に余っているベッドをが借りて泊まらせて貰っていたのだった。夜半に呻く声に飛び起きたマァムは、まさか隣から聞こえているとは思いもしなかった。
「私、何か変な事、口走ってなかった……?」
ろうそくの明かりで微かに見える眉間の影。マァムは既にダイと村長との会話でアバンがこの世にいない事を知っている。そしては先生の死を悼んでいるのを知り、彼らがその悲しい事実を自分に隠そうとしている事も感づいていた。マァムは逡巡するよりも早く、首を緩く横に振った。
「いいえ、うなされていただけよ」
「そう。……ごめんね、部屋を借りているのにうるさくして起こしてしまって……」
そう言い、はベッドを抜け出る。
「どこに行くの?」
「ちょっと外の風に当たってくる……。迷惑かけて本当にごめんね。戻る時は静かに部屋に入るようにするから、マァムは休んでいて」
止める間もなく静かに部屋を出て行ったの背中を、マァムはひどく小さく感じた。
大切な人との永劫の別れは、マァムにも幾度か経験がある。だがそのどれとも違う悲壮感をは纏っている。どうしてかは、まだこの時のマァムには分からなかった。
は宵闇の森を疾走する。
叫びながら森を駆けていくその姿は、はたから見れば気がふれたかのようだった。そしてもつれるように膝を付くと、手も付き、地面に向かって割れんばかりに叫んだ。言葉にならない、ただの悲鳴を上げ続ける。今夜は風が強く、村の中まで声は聞こえないだろう、無意識にそう算段するにはまだ正気ということか。は自分の想いがその程度だったのかと絶望すると同時に、それでも堪え切れない悲しみに翻弄される脆弱な自分が心底嫌になった。本当に狂ってしまえればどんなに楽だろうか。ぐちゃぐちゃにしたい破壊衝動を喉だけを犠牲にしてどうにかやり過ごそうとする。
風はまだ、を覆い包むように吹き荒んでいる。
++++++++++++++
剣を振るっても振るっても、目の前の闇を切り払えない。次の日もは何も見出せずにいた。
気持ちを落ち着かせようと、村の井戸で水を貰ったあとだった。マァム宅の外で、レイラが何かの作業をしているのを見かけた。は足をそちらへと向ける。
「あの、お手伝いします」
「あら。いいのよ、そんな」
笑顔で答えるが、はレイラが座っている長椅子に、小さな球根のようなものがいっぱい入ったザルを挟んで腰掛ける。
「いえ、お世話になっていますし、これくらいさせて下さい」
「そう? ――じゃあ一緒にこのキコ根の芽を取って下さる?」
「はい」
はキコ根と呼ばれた親指大の球根のようなものを手に取り、レイラがするのを見て倣いながら、芽の部分を丁寧に摘んでいく。
「あの、レイラさん……ちょっとお聞きしたいんですが……」
しばらくキコ根に黙々と向かっていたのだが、そのカサがだいぶ減ってきた所では声をかけた。本当は聞いていいものか、しばらく考えた末の事だったのだが、レイラに優しく先を促す顔を見せてもらえたので、とうとう意を決して話しはじめた。
「その、カールのフローラ様という方をご存知ですか?」
「カールの女王の、フローラ様?」
「ハイ……アバン先生と旧知の間柄とうかがっています。で……その……ご本人がいらっしゃらない所でこんな事を聞くのは失礼だと重々承知しております。でも私、他に聞く人を知らなくて……」
芽を取るでもなく、ただいじっているだけの手元のキコ根に俯きながら、は口ごもる。そんなにレイラはやはり優しく笑いかける。
「構わないと思いますよ。カールの城下町では毎日のようにフローラ女王のときめく噂話で持ちきりなのですから」
レイラの気遣いに感謝しつつ、いつの間にか忙しく飛び跳ねている心臓を落ち着かせながら尋ねた。
「その……、どんな方なのでしょうか……?」
「アバン様には聞けないのね?」
は一瞬ドキリとしたが、これはアバンの死を隠している後ろめたさからではなかった。もし生きていても、同じように本人には聞けなかっただろう。素直に、アバンへの恋心からきた躊躇だった。レイラがこう聞いたのも、少女の恋煩いで聞きづらいのだと分かっての事だ。その証拠に微笑ましさに自然と頬が緩んでいる。
そしては真っ直ぐとレイラを見て、正直に言った。
「ハイ、聞けません」
それを聞いて、もう一度レイラは微笑んだ。
「私はカール騎士団にいた夫のロカやアバン様とパーティを組んではいたけれど、個人的に懇意にして頂いてたほどじゃないのよ。遠くからお言葉を頂戴するぐらいで。もちろんそれすらも有り難い事ですけどね。だからさんに断言してお話できるほど、そのお人柄を存じ上げてるわけではないの。それでもいいかしら」
はこくりと頷く。
「そうね……。口々にたとえられているのは『カールの至宝』であったり『希望の女神』であったり。でもそれは決して大げさなのではなく、本当に美しいお方だったわ。民衆を率いて魔王軍に対抗する強さもお持ちだったし、気高く、思慮深い優しさで、カールの民は皆、フローラ様を崇拝に近い思慕で敬愛していた。城下の娘たちだって誰もが憧れていたわ。だってお伽話に出てくるお姫様そのものだったんですもの」
聞いていてもまるで天上の人かとまごうほど、その人徳ははるかに高いものだった。いつも地べたに這いつくばっている自分とはそれこそ天と地ほどの差で、想像していたような嫉妬など覚える気も起きない次元だった。驚くほど素直に感嘆の声が漏れる。
「素晴らしいお方なのですね」
「ええ、そうね」
「それで、先生とは……あっいえッ、あの!」
調子に乗って聞きすぎてしまった。こんな事を人から聞こうだなんてはしたないにも程がある。
「ふふ。アバン様とフローラ様の関係?」
恥ずかしさに顔を真っ赤に染め、は俯いてしまった。
「いいのよ、それも十五年前、散々噂されていた事ですもの。――でもね、真相は誰にも分からなかった。アバン様は戦いが終わった後、魔王の根城で保護した少年を連れて早々に旅立たれてしまったの。誰もがフローラ様と結ばれると思っていたのにね」
「少年?」
「四、五年前にマァムに修行をつけて下さった時には傍にはいなかったわね。何となく聞けずにいたのだけど、あの少年はどうしたのかしら。確か……ヒュンケルといったかしらね」
「ヒュンケル……」
どこかで聞いた事のある名に何かが引っ掛かった。キコ根の芽を取りながら記憶を思い起こしてみたが、何も浮かばない。
「あの、もう一つだけよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
「十五年前のアバン先生は、どんな感じだったんでしょうか」
今までとは違う色に頬が染まった。ほんのりと香るような少女らしい赤みが、の頬をバラ色に色付かせる。レイラはその様子を見て心が温かくなる気持ちがした。
「――そうねぇ、いつも真っ直ぐ前を向いている強さと勇気を持っている方だった。誰もがあの方の瞳に明るい未来を見出し、希望を託していたの。とても重い事のはずなのにそれを苦にもせず、いつもおかしな事を言ったり、したりして、誰かを笑顔にさせていた。それにそんな普段の様子からはとても想像が出来ないほど、その胸の内には炎のような熱さをお持ちだったわ」
「そう……今と変わらないのですね……」
「フフ。そう、今もお変わりないのね」
レイラがそう答えて笑ったのを見て、の口角も自然と上がった。あの時からはじめて、頬が緩んだ気がする。
アバンの死を感じずにアバンの事を話す事が出来る時が来るなんて、には考えもしなかった。だけど、これはとてもあたたかくて柔らかい。心から安らぎ、笑う事が出来た穏やかな瞬間だった。
「ありがとう、全部済んだわ。あとはこれを家に持っていってくれる?」
「はい。わかりました。レイラさん、ありがとうございました。お話聞けて、本当に良かったです」
「いいのよ。私でよければいつでも」
は深くお辞儀をすると、ザルを持ってマァム宅へと入っていった。
それを見送ると、残ったレイラは長椅子に少し散らばっている芽のカスを集める。手元に寄せ集めたカスが一まとまりになると、その手を目元に運んだ。そして手の甲で僅かに零れた涙を拭った。
(そう。アバン様も、逝ってしまわれたのね)
レイラには何となく感づいてしまった。
アバンの弟子だという子が旅に出て、ロモスの王宮に行こうとしている。魔王が復活したと囁かれるこの時に。しかも当のアバンはその姿を見せない。その不自然さは三人の子には申し訳ないが疑う余地が無かった。頭によぎる、最悪の可能性。それはきっと……。
「ロカ……。いつもみたいに怒らないでやってね。アバン様はきっと……全力を尽くされたんだから……」
空の上にいるであろう彼らを、レイラはいつまでも見上げていた。
弾む息は走ってきたからだけではない気がする。
は村の中を小走りに駆けていき、井戸のところまで着くと、もたれかけるように座り込んだ。鼓動を落ち着かせようと胸に手を当てて深呼吸してみても、いっこうに治まる気配がない。熱を伴って胸の奥をざわつかせる何かが、身体中を駆け巡っているようだ。
(私、先生のこと、変わらずに好きだ。今でもこんなに恋している……)
アバンの事を話していただけで、はち切れんばかりに胸は高鳴り、頬は熱く紅潮している。びりびりと甘い痺れに震えている指先をどうにか使い、は井戸の水を汲み、桶に張った水鏡を覗き込んでみた。もうあのじんめんちょうはいない。あるのは、少し困った顔をした記憶の通りの自分の顔だった。
そしては腰の道具袋からアバンの眼鏡を取り出すと、縋るように胸に抱き締めた。
(恋をしていよう。これからもずっと)
あんな憎しみに駆られた醜い顔でアバンに恋してるなど、とてもではないが胸を張って言うことは出来ない。澱んだ醜い気持ちで想うのではなく、あの頃と同じように全身が切なさと喜びで満たされる、そんな淡い想いでこれからも想っていこう。自分に残されたたった一つのものを、綺麗に瑞々しく生かし続けよう。あの人を思い出の中に沈ませず、いつまでも鮮やかな想いで色付かせていよう。
はこれ以上出来ないほど背中を丸め、さらに眼鏡を抱き込んだ。
そして一度だけ、泣くことにした。