ルーラの着地音がパプニカ城内の中庭に響く。
「ふぅ……! 久しぶりだな、ココも」
「そうだね、半年ぶりだ」
二人はまるで故郷の空気を楽しむかのように大きく吸い込み、伸びをした。そして感慨深げに中庭を見渡す。が、そこには驚くような先客が居た。
「ヒュンケル! ラーハルト! それにクロコダインまで!?」
色んな意味で遠目からでも目立つ集団が、よもやルーラの着地先に居るとは思わずに、は声が裏返りそうに驚いた。
「なーんだ、お前らも戻ってたのか!」
「ちょ……っと……なに? どうしたの?」
の声に振り向いたヒュンケルとクロコダイン。そして神殿入り口の階段に腰掛け、顔を上げるのも鬱陶しげに遅れてこちらを見やるラーハルト。その顔は痛みに耐えているのか、いつもの険しさとは違う険を含んだ、苦しげな表情を向けた。
見れば所々傷付き、青い流血が大いに衣服を汚している。乾ききらない鮮血が傷の酷さと受けてから間もない事を示していた。
ポップとは彼らに駆け寄る。
「どうしたのよラーハルト、その傷!?」
回復呪文をかけようと手をかざすと、制される事なく受け容れてくれた。普段の彼ならば強がるであろうことを思うと、それほど辛いのか、とは懸念した。
「梃子摺らせてくれた、あの野郎……。今頃、地獄に舞い戻って俺を怒らせた事を後悔してるだろうよ」
肩で息をして弱々しいながらも、盛大な舌打ちだけは健在だ。
「すまん……ここまで傷を負ったのは俺のせいだ……」
ヒュンケルは神妙な面持ちで眉根を顰めた。久しぶりに見た端正な顔立ちがこんなに弱気な表情をしているのにも珍しい。はもう、どこを見ていいのか分からなくなる。
「フン、戦えもしないのにしゃしゃり出てくるんだからな。負わなくていい怪我をさせられた。やるならば、ああしてグランドクルスをさっさとお見舞いしてやれば良かったんだ」
「すまん……」
「チッ! 姿形に惑わされやがって……」
傷が癒えてきて調子が戻ってきたのか悪態にも力が篭り始める。明確な答えもくれずに頭の上でいまいち飲み込めない会話を交わされ、は治療を止めてやろうかと思った。
「お、おい。話が見えねぇんだけど」
果敢にもこの二人の話に飛び込んだポップに、ラーハルトは気だるそうに見やった。
「門が開いたという事だ」
「……門?」
「みんな!!」
その声の方へ一斉に振り向くと、青いローブを纏ったレオナがエイミを伴って、息を切らせながら駆け寄って来た。
本来であれば議事堂で会そうとしていたが、話の中心になるラーハルトがまだ本調子ではない為、硬い椅子ではなくソファのあるサロンへ一同は集まった。気遣われている本人はその豪奢なソファに臆する事なく、ソファの本来の役目を十二分に果たさせるかのように、悠然たる態度で身体を預けている。あいつはどこの王様だ、とポップが聞こえるように嫌味を吐いても気にする様子はない。
「デルムリン島が魔界と繋がった!?」
レオナとポップとは驚愕に目を見開く。
「ああ。今思えば、数週間前から島の様子はおかしくなっていたように思う。普段は大人しい奴らなのに一部のモンスターが急に暴れだしたり、争いを始めたり……。一度収めればしばらくはいつもの通りなので、俺もあまり気にせずにいたんだが、時々、それにほんの少しずつ、凶暴さが増してきているように感じたんだ。そんな時にヒュンケル達がデルムリン島に来てくれてな。久々に飲み明かそうと思った矢先だ。…………島が鳴動した」
三人はクロコダインの言葉を食い入るように聞き取る。
「前に地下へ陥没した洞窟があったらしいですな」
「覚えてるわ! 私が洗礼の儀式の為に行った洞窟ね」
「ええ。そのあと、ダイが姫を連れて地下から脱出した際に、再び洞窟は閉ざされてしまったとブラスさんが言っていた。だが俺達が異変がないか島中を探索したところ、その閉ざされていた地下への入り口を見つけたんだ。勿論、俺達はその先を進んでみた。側を流れるマグマが増えてきたと思った頃だ。……そいつはそこに居た」
「おっさん! もったいぶらずに教えてくれよ! 誰が居たって言うんだ!」
ポップはもう限界とばかりに喚く。だがそれはもレオナも一緒で、頷きあった。
「おお、すまんすまん。話すのは苦手でな。………………魔族だ」
「魔族……?」
三人の呟きは重なる。
「しかも恐ろしく強い。こっちにはラーハルト、ヒム、俺、エイミ、それに戦えなくてもヒュンケルというメンツが揃ってる。だが人間の女の姿をしたその魔族は、俺達を見るや否やいきなり戦闘を仕掛けてきてな、五対一だというのに、あわやという所で何とか倒す事が出来た程だった。そいつはおかしな事を言っていたな。『我らの王は渡さない』とか……」
何の事だろうと、とレオナは首を傾げるが、ポップは少し話が進んだ事に気を良くしてか、舌が回りはじめる。
「言いがかりで因縁ふっかけられてボロボロにされちゃあ、たまんねぇよな。なぁラーハルト?」
何も言いはしないが、鼻を鳴らし、より尊大にソファへ身体を預け、見下げてくる。ポップはその様子に肩を竦めると、ヒュンケルの方へ向き直る。
「にしても、地下でよくグランドクルス使う気になったよな。一歩間違えれば、岩盤が崩落してみんな生き埋めだぜ?」
「戦闘中に壁が崩れてな、魔界のひらけた景色に繋がったんだ。その魔界の空に目がけて打ってやったのさ」
そゆことですか、とポップは納得したかのように幾度か頷いた。
「実はその話はそれで終わりじゃないんだ、ポップ」
「は?」
軽い世間話のつもりでした話が終わったかと思ったところにクロコダインの待ったが入り、ポップはきょとんと目を丸くする。だがそんなポップを余所にクロコダインの話は続く。
「その魔族を倒したあと、ラーハルトの怪我も心配だったが、実はエイミとヒュンケルが魔界の空気に中てられて体調不良を訴えてな。俺達は一旦洞窟から出た。それで気が付いたんだ、島のモンスターの様子がおかしかったのは、洞窟から少しずつ瘴気という魔界の空気が漏れていたからじゃないか、と」
「……そうか!」
ずっと静かに聞いていたはようやく顔を上げて呟いた。皆の視線が集まる。
「ロモスのあの不穏な空気はデルムリン島から流れてきた瘴気だったのかもしれない。デルムリン島に一番近いのは、ロモスのあるラインリバー大陸だし…………そうだ、ねぇポップ! もしかしたらネイル村の疫病だって、それに関係あるんじゃない?」
「どういうこと、? マァムがここにいないのも……」
「ええ、村を助ける為に帰ってるのよ。ねぇクロコダイン。魔界の瘴気で人々の心に影響したり病気が発生したり、そんな事は有り得るの?」
クロコダインは腕を組むと少し呻いた。そして幾ばくか考え込むと、 の方へ顔を向けた。
「有り得る」
「やっぱり……」
「俺が見たところ、洞窟に繋がった魔界は広大に広がる一般的な大地と同じようだった。魔界の瘴気や環境は人間には有毒だが、地上に漏れて幾らか薄くなったというのにそんな影響を及ぼすほど濃い瘴気は俺も初めて聞く。ただのモンスターでは近付かないような魔界の深遠でなければ、有り得ないはずの現象だがな」
「…………急がないといけない」
今度はレオナの呟きに皆の視線が集まる。見れば柳眉の間に細かな皺を刻み、白い肌をやや青ざめさせている。
「そうです、レオナ姫。察しが早くて助かる。我々には一刻の猶予もない。戦力を得てただちに乗り込むのがオレ達の見解だ」
王家の人間以上に尊大な態度でラーハルトはソファから進言した。
「どういうこと?」
は素直に疑問を口にする。ラーハルトは高慢さを二割増しにしてを見下げた。
「話はそれで終わりじゃないと言っただろう。いいか、貴様にでも分かるように言ってやるから心して聞け。徐々に漏れた瘴気でそれだけの被害があるんだ。魔界が一望できる大穴が開いてしまった以上、そこから今まで以上の瘴気が地上に漏れ出す。地上への影響は加速度的に悪化し、いずれは第二の魔界の出来上がりだ」
ラーハルトの物言いに腹は立ったが、聞いているうちにその深刻な状況からそんなものも忘れてしまい、愕然と立ち尽くした。
「洞窟自体を完全に封じ込めてしまえればいいのだが、そこまで濃い瘴気が充満しているという魔界の動向も気になる。ダイ様の事に何か関係があるんじゃないかという話もあながち否定も出来ん。ダイ様に関して一縷の可能性が出てきたのならば、俺は単身でも乗り込むつもりだ。そのあと、洞窟を崩落でもさせて穴を塞いでもらっても構わない」
「乱暴を言うんじゃない、ラーハルト!!」
クロコダインの咆哮がサロンに響く。さすがのラーハルトも一瞬、息を止めてしまった。
「可能性に縋りたいのは俺達も一緒だ! だが魔界に潜れば、またあの魔族のような強者と対峙する事もあるかもしれない、そう思って仲間を集いに急ぎ、パプニカまで来たのだろう! 俺が言えた義理じゃないがその怪我を見ろ! 誰も好き好んでお前に傷付いてもらいたくはないんだ! 時間が無い。自分の身を顧みつつ最良の方法を口にしろ!」
そしてレオナの方へ向き直る。
「姫、時間を下さい。地上は探し尽くして、ダイが居そうな所はもういくつもないのです」
瞬間、レオナの瞳に深い色味が差した。いくつもの案件を頭の中で瞬時に考え張り巡らす、統率者たる瞳だった。
「我々は魔界へ向かいます。一ヶ月……いや三週間でいい。その間、洞窟を封鎖せずに退路を設けておきたいのです。完全に大気を遮断する事は難しいでしょうが、出来るだけ瘴気が流れ出ないようアバン殿や世界の有識者と対策を考えて頂きたい」
その堂々たる体格もあるだろうが獣王の威風は未だ健在で、一同はか細かった光明に向けて希望を奮起させる流れを得た。クロコダインの熱烈な意思に誰も異議を唱えるものはいない。
「分かりました。地上の方は私に任せて下さい」
レオナは力強く頷き、快諾した。その風格も絶対たる信頼感を寄せるものに相応しいものになっていた。
少し場が柔らかくなったのを機に、新しい紅茶が運ばれてきた。
「パーティーはどうするの?装備品を整えるわ」
そのレオナの言葉にポップは指折り確認する。
「ええと、すぐにでも動けるのはおれ、、おっさん、ラーハルト、ヒムか。……そういえば、ヒムはどうした?」
「あの魔族のようなヤツが地上に出てきては厄介だしな、見張ってもらっている」
「じゃあそれも急がないとヤバイって事だな。もし本当に出てきちまったらヒム一人じゃ押さえられねぇ。……よし、わかった! これから準備してすぐにでも……!」
「おい」
俄然やる気を出してきたポップにラーハルトは声をかける。勢いを削ぐな、と言いたげな目をラーハルトに寄せるが、続けて口は開かれる。
「ところでお前…………女は知ってるのか?」
「はぁ!!?」
サロン中に響き渡る声量でポップは叫んだ。
ポップだけではなく、レオナもヒュンケルもも、突然のラーハルトの言動に目を丸くした。
「、お前もだ。男は知っているのか?」
「っな!!?」
その矛先がまさか自分にも回ってくるとは思わず、もポップに劣らない大きさで叫ぶ。
頭まで怪我したんじゃないかと心配さえするほど、今の今までしてきた深刻な話の後にするとは思えない、そしてこの男には似つかわしくない質問内容で、驚愕に口を開け閉めする事しか出来ない。
もし答えられても、ハイ知りません、とこれだけ知人のいる中で暴露できるほど感覚は鈍くないし勇気もない。ポップとは耳まで赤くすると、せめてもの抵抗を試みる。
「お、おおおお前ぇバッカじゃねーの!?」
「そ、そうよ! いきなり失礼ね! 失礼なヤツだと前々から思ってたけど、ここまでとは思わなかったわ!!」
喚く二人とは反対に、まるで「お元気ですか?」と質問しただけのような態度で平然と続ける。
「馬鹿が。お前らの片腹痛い色恋事情など塵ほども興味はない。ただ命を心配して聞いてやってるんだ」
「命?」
クロコダインはポップの肩に手を掛け、こっそりとは言えない声量で話した。
「ポップ。別にラーハルトは下世話な興味で聞いているんじゃないんだ。……魔界はな、人間には有毒な瘴気で満たされている。大気全体に悪意という名の霊魂が満ちている感じでな、少しでも聖の気があると魂ごと喰われてしまう。人間の処女性は貪欲な奴らにとっては、またとない御馳走だ。だがそれさえなければ、お前たちほどの魔力があれば魔界を渡っていけるかもしれない、そう思ってラーハルトは聞いたんだ」
「ふん」
言いたい事を全て言ってくれたクロコダインのおかげで、役目は御免とばかりに再びソファに身を投げ出した。
「ま、その様子ではNoと捉えていいだろうな」
あの見下げた目で鼻を鳴らしながらそう言われると、極大消滅呪文でもぶっ放してやろうかと、殺意さえ芽生えてくる。だが、肯定の言葉を紡ぐ経験は頭のどこを探しても見当たらない。怒るのもお門違いだと分かっていながら、二人には言いようのない怒りが沸き起こっていた。ポップは煮えたぎる頭で、どうにか矛先を逸らそうと形振り構わず喚く。
「お、お前らはどうなんだよ!」
また鼻を一つ鳴らす。
「クロコダインやヒムは人間ではないし、元々聖なる気を持っていない。オレも半魔だからな、影響は受けん事は先の洞窟で実証済みだ。まぁ影響を受けたとしても支障は無いが、な」
そう言った顔の極悪さにポップは掴み掛からんばかりの勢いだ。けれどもここでそれをぶちまけても、何の解決にもならないし、何より負けを認めたようで面白くない。ポップは割れんばかりに奥歯を噛み締める。
そんなポップを目の前に、舌撃はその勢いを衰えさせない。
「このまま行っても無駄死には確実だ。参戦しないか、どこかで捨ててくるかの二つに一つだぞ。……そうだ、二人で捨て合えば効率的じゃないか」
いい事思いついた、という顔がさらに怒りを増長させる。
魔族の貞操観念が薄い事はロン・ベルクを見て知っていたが、ここまで来るとそれはもう、本人の気質によるもののような気がする。
自分達がこの一年、どんな思いでそれから避けてきたかなど、この男が知る由もないのは分かっているが、それでも簡単に取り扱ってくれるその態度に憤りを感じた。後で一人ずつこっそりと伝えるなどという芸が出来るとも思わないが、そうして欲しかったとは切に思った。皆の前で自分の経験の有無を話される事は、これ以上ない嫌がらせであり辱めだ。ワナワナと震える身体を押さえ付けて、ただ俯いて床を見つめるしか出来ない。顔を上げて無神経に話しはじめたラーハルトを睨んでみても、何の威力もなかった。
勿論、魂が喰われてしまうのが事実であるなら、それは最もであり他に選択肢などない。二つに一つ。それはとても明快でシンプルだ。だが、どちらもにとって酷なものであった。
「ったく、大事に取っておくものでもなかろう……。まぁいい、一晩だけ待ってやる。それまでに済ませてこい。明朝に現れなかったら俺達だけで行くからな。…………だが一つだけ言っておくぞ、俺はお前達の戦力を当てにしている」
相変わらず上からの物言いだが、最早怒りは湧いてはこない。いくら戦力がいるからと言っても、今までの彼なら直ぐに見切りを付けてさっさと行ってしまっていただろう。戦力として仲間として期待をしてくれているのを、今すぐにでも行きたい所を一晩待ってくれるのを、彼なりの温情である事を分かっているからだ。
「お、おい、ラーハルト。いくらなんでも急かしすぎだ。二人にも気持ちというものがあるだろう!」
「気持ちと一分一秒を争ってる実情とどちらが優先されるべきか、お前だって分かるだろう、クロコダイン!」
「だがな、一分一秒でも早く行くのと最短を辿るのは同じじゃない!」
「これが最短だ!」
言い争いに発展しそうな二人の間を止めたのは誰でもない、話の渦中にいるポップだった。
「お前の気持ちはわかるぜ、ラーハルト」
皆がポップの方へ視線を向けると、すでに背を向けていた。その表情は窺い知れない。
「分かった、集合は明朝だな」
恐ろしくはっきりと、そして力強くそう言ったかと思うと、誰とも目を合わせずにポップはサロンから出て行ってしまった。
残された一同は、少しばかり静寂に包まれた。
そして次に視線を集めるのは、だった。
それを痛いほど感じる。恥ずかしくて居た堪れなくて、は消え入りたくなったが身体が思うように動かない。己の処女の喪失の動向を見守られているなど、この場で全裸で立たされている方が幾らかマシだとさえ思った。
「お前はどうするんだ」
崖っぷちにまで追い詰めるラーハルトの言葉に、は視線だけを彼に向けた。ラーハルトはその不遜な態度を変えずに口の片方の端を上げ、不敵に微笑んだ。
「当てがないなら俺が相手してやらんでもないぞ」
つんざくような破裂音がサロンに木霊する。
真っ赤な顔で肩で息をするの手は、その衝撃にいつまでも痺れていた。
「アンタなんて大ッ嫌い!!」
皆が目の前の出来事と、聞いた事もなかったの罵倒とに面食らっていると、はあっという間にサロンから駆け出していった。
「チッ。怪我人を本気で叩きやがって」
親指で口の端を拭うと、青い血が滲んでいた。
「やりすぎだ、ラーハルト。あれじゃ誰だって怒る」
「フン、魔界では何が起こるか分からんからな。生半可な覚悟でなら止めておいた方がいい」
ヒュンケルが腕を組んで友を諭そうとしたが、悪びれもなく親指に付いた血を眺めながら淡々と語るその様に、レオナは深い嘆息を漏らした。
「人の気持ちが分かってんだか分かってないんだか、分からないわ」
「ま、半分本気ですがね」
「何ですって?」
「いつでも相手してやってもいいと言ったつもりです」
レオナとヒュンケルとクロコダインの三人は一斉に頭を抱えた。
++++++++++++++
は宛がわれた部屋にいた。
城中を叫んで走り回りたいぐらいだったが、先に出たポップと鉢合わせてしまう事を考えると居心地が悪い。なるべく顔を合わせないように、隠れるように自室に逃げ込んだのだった。
は窓際に立ち、窓の外を向いている。だが脳裏にその景色を送り込まず、ただ瞳に映すだけであった。
ずっと逃げていたツケが最悪の形で返ってきてしまった。
は己の愚行を喉が千切れんばかりに責めたかったが、今となってはもう遅い。
当然の報いかもしれない。ぬるま湯に浸かってお互いの気持ちに直面するのを避け続けた、臆病者の末路がこれだ。人並みに初めての夜への夢や希望を持っていたが、もし今夜ポップと結ばれることになろうともそれは最早、手段のように感じる。いつでも手に入るという甘えから向き合う事を怠け、欲しい時には既に手に入らないとは、何と皮肉なことか。は自嘲気味に一人笑う。
かといって、魔界へ行くのを辞める気はない。ダイの帰還を心待ちにする人々の元へ送り届けてあげたい、その一心でこの一年探し続けてきたのだ。その希望が一ミリでもあるのならば、縋りつきたいのはも一緒だった。しかもその戦力として当てにしてくれているのも分かっている。自分の処女の喪失など、ラーハルトの言うようにさしたる問題ではないのかもしれない。いつまでも固執する少女の夢など、直ぐに泡沫と消える淡いものじゃないか。
が心を決めたように顔を上げると、もう目の前の景色は茜色に染まっていた。
ざわり、と胸が騒ぐ。
指先まで痺れるような得体の知れない高鳴りが、止まることを知らずに打ち付け続ける。もう時間がない。は窓枠を指で軋ませた。
「、いる?」
ノックと共に聞こえてきたのはレオナの声だった。
ひっくり返りそうな声を何とか抑え、返事をする。
「どうぞ」
の声を受け、レオナは部屋に入る。その顔は至極真剣だ。
「。……ついて来て欲しい所があるの」
「え?」
笑みの一つも浮かべないレオナに違和感を感じながらも、はその背中を追って素直について行った。ふたりは無言のまま、城内を静かに移動していく。
「ここよ」
「ここ、って……」
パプニカ城内の大浴場。
そこの前に二人はいた。
「どうぞ、入って」
レオナは扉を開け、脱衣所を渡って浴場の戸を開ける。
「…………す……ごい……」
まるでバラの花束に包まれているかのようだった。
湯面には無数の真紅のバラの花弁。そして立ち上る湯気からも芳しい満開のバラの香り。華やかで絢爛な浴場は、おとぎ話に出てくる景色のようだった。
でしょう? レオナはそう言って得意げに腕を組んだ。
「どう……したの、これ……?」
「あなたのために用意したのよ」
「私のため!?」
レオナは頷く。
はゆっくりと、浴場を見渡した。そして浴槽の淵に膝を付くと、お湯をすくって手の平で弄ぶ。
「これだけの湯量でこんなに香りが立ち上るなんて……、一体どれだけのバラの香油を使ったの?」
「ま、金額にしたら目玉が飛び出るぐらいね」
レオナは平然と言ってのける。はあんぐりと口を開けたまま閉じられない。
「…………行くんでしょう?」
はただ俯いたままだ。
「私に出来るのはこれだけ。せめて街の娘たちが夢見るような状況で、あなたを送り出してあげる」
「レオナ……」
「あの男たちは乙女心が全く分からないからね! ――ねぇ。どんな状況であれ、女の子はいつでも夢見ていいのよ。自分を粗末に扱ってはダメ」
そう覗き込む顔はとても年下のものではなかった。親身になって心配し諭す、人生の先達の姉のようだった。は肩の力が抜けていくのを感じ、レオナはその肩に優しく手をかける。
「怖がらなくていいのよ。とてもステキな事なんだから」
「でも! …………でも、震えが止まらないの……。どんな顔をしたらいいのか分からない……! それに……私の所へ来るとは限らないもの。男の子なら娼館に行けば後腐れなく済ませられるじゃない……」
「来るわ、彼なら」
即答するレオナにはやや困惑した。何故そう言いきれるんだろう、と。
もしポップがの元へ行かなければ、例のあの半魔がそれに乗じて好い目に会う可能性がある。それこそを泣かせてしまうような事態だ。それだけは阻止せねばならない、首根っこ掴まえてでもポップをの部屋に放り込んでやろうと、レオナは密かに心に決めていたのだ。無意識に唇を真一文字に結ぶ。
「…………レオナ?」
急に黙り込んだレオナを不思議そうに見つめる。
「あ、ああ、大丈夫よ。心配しなくても大丈夫」
根拠も見当たらないが、ニッコリと微笑むレオナを見てると任せても平気な気がした。
「それじゃあ、『乙女の憧れ風呂』をゆっくり堪能してね。そして…………また明日ね」
レオナは立ち上がるとさっさと浴場から出て行ってしまった。豪奢な獅子の口から流れ出るお湯の音だけが反響する広い浴室に、は一人取り残された。
++++++++++++
バラの香りには鎮静効果があるといわれている。
その効果が得られたのか、は肩まで湯に浸かって甘い香りに包まれていると、指先まで痺れていたあの高鳴りがだいぶ落ち着いたように感じた。目の前に寄ってくる花びらを一つ、二つ、と指で弾いて湯浴みを存分に堪能する。
少しはしたないかな、と思いつつ誰も居ない事をいい事に、は湯に潜ってみた。ゆっくりと足を掻いて底に辿り着くと、水面を向くように体を反転させる。目の前にゆらゆらと揺らめく真っ赤な花弁の隙間から灯りが見え隠れすると、一層の心は落ち着いた。水面へ身体を浮かせていき顔を出し、むせ返るほどのバラの香りを胸いっぱいに満たすと、そのまま身体を浮かせて流れ続ける湯の音にしばらく耳を澄ませた。